・・・一時期すぎると、けろりとしている。恥じるがいい。それが純粋な人間性だ、と僕も、かつては思っていた。僕は科学者だ。人間の官能を悉知している。けれども僕は、断じて肉体万能論者ではない。バザロフなんて、甘いものさ。精神が、信仰が、人間の万事を決す・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・かつて君には、一葉の恋文さえ書けなかった。恥じるがいい。女体の不言実行の愛とは、何を意味するか。ああ、君のぼろを見とどけてしまった私の眼を、私自身でくじり取ろうとした痛苦の夜々を、知っているか。 人には、それぞれ天職というものが与えられ・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ 鋭い眼をした主人公が、銀座へ出て片手あげて円タクを呼びとめるところから話がはじまり、しかもその主人公は高まいなる理想を持ち、その理想ゆえに艱難辛苦をつぶさに嘗め、その恥じるところなき阿修羅のすがたが、百千の読者の心に迫るのだ。そうして・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・私はこの警官に対して何となくいい感じを懐くと同時に自分の軽率な行為を恥じる心がかなり強く起った。 ここで自白しなければならない事は、私等が交番へはいると同時に、私は蟇口の中から自分の公用の名刺を出して警官に差出した事である。事柄の落着を・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・自分の弱点を恥じる心が、嫌われるだろうと思う疑懼に交って、とうとうわたくしをあの場から逃げさせてしまいました。わたくしは自分の恐ろしい運命を避けよう、どうしてもあなたにお目に掛かるまいと決心いたしました。わたくしは帽子を取って被って、女中に・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・私はこれを自ら言いて更にそを口にした事を恥じる。 私は次に宗教の精神より肉食しないことの当然を論じようと思う。キリスト教の精神は一言にして云わば神の愛であろう。神天地をつくり給うたとのつくるというような語は要するにわれわれに対する一つの・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ましてや、温和なチェホフが、壮年のゴーリキイを除名したアカデミーにたいして、自分がアカデミシャンであることを恥じると抗議したような、温和にして剛毅な文学の精神は、日本の当時に存在しなかったのである。 十三年代に明瞭にあらわれた、この文化・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・ アグネスは、アーネストと分れて後、成熟した一人の女として、性的な衝動を恥じる偽善に反撥を感じてからは、「この羞恥心に挑戦して立ち上って」「行為によって反抗した。」何人かの男と友愛から進んで同棲し、そして何人かのそれらの男のもとから去っ・・・ 宮本百合子 「中国に於ける二人のアメリカ婦人」
・・・ 或時には、情慾だと思って、自分で恥じるほど激しい思慕が、身と魂を、白熱して燃え上って来るのである。そう云う時、彼女は、只出来得る限りの謙譲で、そのたい風の過ぎ去るのを待つよりほか仕方がなかった。しっかりとくんだ手を胸の上にのせて、汗ば・・・ 宮本百合子 「無題(三)」
・・・私たちはこの穢ないものを恥じるゆえに、抑圧し征服し得るゆえに、安んじていていいものでしょうか。私は自分に親しい者たちの心の内に同じような穢ないものがある事を想像するのはとてもたまらない。それと同じく他の人も私の心の暗い影を想像するのは非常に・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫