・・・心がにぎやかでいっぱいに充実している人には、せせこましくごみごみとした人いきれの銀座を歩くほどばからしくも不愉快なことはなく、広大な山川の風景を前に腹いっぱいの深呼吸をして自由に手足を伸ばしたくなるのがあたりまえである。F屋喫茶店にいた文学・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・得意の章魚のように長い手足で、じいとからんで彼らをしめつける。彼らは今や堪えかねて鼠は虎に変じた。彼らの或者はもはや最後の手段に訴える外はないと覚悟して、幽霊のような企がふらふらと浮いて来た。短気はわるかった。ヤケがいけなかった。今一足の辛・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・尤もそれを信用する争議団員は一人もありはしなかったが……しかし、モウ今日では、利平達は、社長の唯一の手足であり、杖であった。会社の浮沈を我身の浮沈と考えていた。彼等は争議団員中の軟派分子を知っていた。またいろいろの団員中の弱点も知っていた。・・・ 徳永直 「眼」
・・・腰も曲ってはいなかったが、手足は痩せ細り、眼鏡をかけた皺の多い肉の落ちた顔ばかりを見ると、もう六十を越していたようにも思われた。夏冬ともシャツにズボンをはいているばかり。何をしていたものの成れの果やら、知ろうとする人も、聞こうとする人も無論・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・又あるときは頭よりただ一枚と思わるる真白の上衣被りて、眼口も手足も確と分ちかねたるが、けたたましげに鉦打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これは癩をやむ人の前世の業を自ら世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。 旅商人の・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ひどく殴りつけられた後のように、頭や、手足の関節が痛かった。 私はそろそろ近づいた。一歩々々臭気が甚しく鼻を打った。矢っ張りそれは死体だった。そして極めて微かに吐息が聞えるように思われた。だが、そんな馬鹿なこたあない。死体が息を吐くなん・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・無智の人民を集めて盛大なる政府を立つるは、子供に着するに大人の衣服をもってするが如し。手足寛にしてかえって不自由、自から裾を踏みて倒るることあらん。あるいは身幅の適したるものにても、田舎の百姓に手織木綿の綿入れを脱がしめ、これに代るに羽二重・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・あの広野を女神達が歩いていて、手足の疲れる代りには、尊い草を摘み取って来るのだが、それが何だか我身に近付いて来るように思われる。あの女神達は素足で野の花の香を踏んで行く朝風に目を覚し、野の蜜蜂と明るい熱い空気とに身の周囲を取り巻かれているの・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・「ソレ顔の黒い、手足の白い、背中が黒くって腹が白くッて」。「オヤ変な娘ッ子だネ、そうしてその娘ッ子がおとなしくなびいたかい」。「イヤしくじったでがすヨ、尻尾をひッつかまえると驚いて吠えただからネ」。〔月日不詳〕・・・ 正岡子規 「権助の恋」
・・・ あまがえるどもは緑色の手足をぶるぶるぶるっとけいれんさせました。そしてこそこそこそこそ、逃げるようにおもてに出てひとりが三十三本三分三厘強ずつという見当で、一生けん命いい木をさがしましたが、大体もう前々からさがす位さがしてしまっていた・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
出典:青空文庫