・・・しかし、一体人間を過不足なく描くということが可能だろうか。そのような伝統がもし日本の文学にあると仮定しても、若いジェネレーションが守るべき伝統であろうか。過不足なき描写という約束を、なぜ疑わぬのだろう。いや「過不足なき」というが、果して日本・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・朧気な記憶をたよりに書けないこともないが、それでは主人公は私好みの想像の女になってしまい、下手すれば東京生れの女を大阪の感覚で描くことになろう。 夜更けの書斎で一人こんな回想に耽っていると、コトンコトンと床の間の掛軸が鳴った。雨戸の隙間・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 私は他人の印象から、どうかするとその人の持ってる生命力とか霊魂とかいったものの輪郭を、私の気持の上に描くことができるような気のされる場合があるが、それが私自身のこととなると、私にはさっぱり見当がつかないのだ。こうした状態の自分に、いったい・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・そして私は母が姉であり得るような空間や妹であり得るような時間を、空を見るときや海を見るときにいつも想い描くのだった。 燕のいなくなった街道の家の軒には藁で編んだ唐がらしが下っていた。貼りかえられた白い障子に照っている日の弱さはもう冬だっ・・・ 梶井基次郎 「闇の書」
・・・自分もチョークで画くなど思いもつかんことであるから、画の善悪はともかく、先ずこの一事で自分は驚いてしまった。その上ならず、馬の頭と髭髯面を被う堂々たるコロンブスの肖像とは、一見まるで比べ者にならんのである。かつ鉛筆の色はどんなに巧みに書いて・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・われながらお話にはならないまずサ加減、しかし僕は幾度でもこれを画く、まず僕の力でこれならと思うやつができるまでは何度でも写しにくると決心してかかったのだ。ところでこのまずいやつをここまで画き上げるのに妙なことがあったのサ。 しきりと画い・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・行為そのものを描く。ときとしては末梢的些末事と取り組んで飽くことを知らない。人生を全体として把握し、生活の原理と法則とを求めるものは倫理学に行くべきだ。これは文芸に求めるのが筋ちがいだからだ。もとより倫理学は学としての約束上概念を媒介としな・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・―― 青年たちはこういうふうに娘たちを、美と善との靄のなかにつつんで心に描くことは少しも甘いことではなく、むしろ健やかなことである。のみならず賢いことでさえある。古来幾多のすぐれたる賢者たちがその青春において、そうした見方をしたであろう・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・そしてプロレタリア文学が「前衛の立場に立って物を覗、かつ描く」という根本的な方針が、既に、一年前に確立され、質的飛躍の第一歩がふみだされているとき、工場労働者とはちがった特殊な生活条件、地理環境、習慣、保守性等を持った農民、そして、それらの・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
・・・現実をあるがまゝに描くのである。結局、それも花袋の場合にあっては支配階級の階級性に制約されているのであるが、独歩がより多く、支配する立場の者に着目したのに比して、花袋は、もうすこし下級の者に着目した。これは「田舎教師」についてもまた見られる・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
出典:青空文庫