・・・この板画の制作せられたのは明治十二三年のころであろう。当時池之端数寄屋町の芸者は新柳二橋の妓と頡頏して其品致を下さなかった。さればこの時代に在って上野の風景を記述した詩文雑著のたぐいにして数寄屋町の妓院に説き及ばないものは殆無い。清親の風景・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 明治二十年一月中旬高知 中江篤介 撰 中江兆民 「将来の日本」
・・・――明治四三、七、二三『東京朝日新聞』―― 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・ 我国では明治の初年は如何にあったか知らないが、大体二十年頃以前は英国哲学の影響を受け、二十年頃以後はドイツ哲学の影響を受けて、今日に至ったといい得るであろう。私はドイツ哲学の優秀を疑うものではないが、右にいったように、フランス哲学・・・ 西田幾多郎 「フランス哲学についての感想」
・・・生田長江氏がその全訳を出す以前にも、既に高山樗牛、登張竹風等の諸氏によつて、早く既に明治時代からニイチェが紹介されて居た。その上にもニイチェの名は、一時日本文壇の流行児でさへもあつた。丁度大正時代の文壇で、一時トルストイやタゴールが流行児で・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ その学校は、昔は藩の学校だった。明治の維新後県立の中学に変わった。その時分には県下に二つしか中学がなかったので、その中学もすばらしく大きい校舎と、兵営のような寄宿舎とを持つほど膨張した。 中学は山の中にあった。運動場は代々木の・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・左れば今婦人をして婦人に至当なる権利を主張せしめ、以て男女対等の秩序を成すは、旧幕府の門閥制度を廃して立憲政体の明治政府を作りたるが如し。政治に於て此大事を断行しながら人事には断行す可らざるか、我輩は其理由を見るに苦しむものなり。況して其人・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・し一 此金を受取りたる時は年齢に拘らず平均に六人の家族に頭割りにすべし例せば社より六百円渡りたる時は頭割にして一人の所得百円となる計算也一 此分配法ニ異議ありとも変更を許さず右之通明治四十二年三月二十二日 露都病院にて・・・ 二葉亭四迷 「遺言状・遺族善後策」
・・・〔『日本』明治三十二年三月二十二日〕 曙覧が清貧の境涯はほぼこの文に見えたるも、彼の衣食住の有様、すなわち生活の程度いかんはその歌によって一層詳に知ることを得べし。その歌左に人にかさかしたりけるに久しうかへさざりければ、・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ 南部の紫紺染は、昔は大へん名高いものだったそうですが、明治になってからは、西洋からやすいアニリン色素がどんどんはいって来ましたので、一向はやらなくなってしまいました。それが、ごくちかごろ、またさわぎ出されました。けれどもなにぶん、しば・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
出典:青空文庫