・・・その煙は時として街道の上へ重苦しく流れて来た。だから街道は日によってはその樹脂臭い匂いや、また日によっては馬力の通った昼間の匂いを残していたりするのだった。 橋を渡ると道は溪に沿ってのぼってゆく。左は溪の崖。右は山の崖。行手に白い電燈が・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・ 無常迅速生死事大と仏家は頻りに嚇して居る、生は時としては大なる幸福ともなり、又た時としては大なる苦痛ともなるので、如何にも事大に違いない、然し死が何の事大であろう、人間血肉の新陳代謝全く休んで、形体・組織の分解し去るのみではない歟。死・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・陳い習慣の抜殻かも知れないが、普通道徳を盲目的に追うている間は、時としてこれに似たような感じの伴うこともあった。あの情味が新開眼の自己道徳には伴わない。要するに新旧いずれに就くも、実行的人生の理想の神聖とか崇高とかいう感じは消え去って、一面・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ 最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・もちろん芸術家も時として衣食のために働かなければならぬと同様に、科学者もまた時として同様な目的のために自分の嗜好に反した仕事に骨を折らなければならぬ事がある。しかしそのような場合にでも、その仕事の中に自分の天与の嗜好に逢着して、いつのまにか・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・同じようなわけで、裁判所におけるいろいろな刑事裁判の忠実な筆記が時として、下手な小説よりもはるかに強く人性の真をうがって読む人の心を動かすことがあるのである。 これから考えると、あらゆる忠実な記録というものが文学の世界で占める地位、また・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・角張った父の顔が、時としては恐しい松の瘤よりも猶空恐しく思われた事があった。 或る夜、屋敷へ盗棒が這入って、母の小袖四五点を盗んで行った。翌朝出入の鳶の者や、大工の棟梁、警察署からの出張員が来て、父が居間の縁側づたいに土足の跡を検査して・・・ 永井荷風 「狐」
・・・そしてこの広い一室の中にはあらゆる階級の男女が、時としてはその波瀾ある生涯の一端を傍観させてくれる事すらある。Henri Bordeaux という人の或る旅行記の序文に、手荷物を停車場に預けて置いたまま、汽車の汽笛の聞える附近の宿屋に寝泊り・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ わたくしの言わむと欲する所は、隅田川の水流は既に溝涜の汚水に等しきものとなったが、それにもかかわらず旧時代の芸術あるがために今もなお一部の人には時として幾分の興趣を催させる事である。わが旧時代の芸文はいずれか支那の模倣に非らざるはない・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・こういう悪戯を二度も三度も繰り返して居る太十の姿を時として見ることがある。赤は煎餅が好きであった。赤に煎餅を食わせて居る太十の姿がよく村の駄菓子店に見えた。焼けの透らぬ堅い煎餅は犬には一度に二枚を噛ることは出来ない。顎が草臥れて畢うのである・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫