・・・ そして彼が窓辺を去って、寝床の上に横になるとき、彼は部屋のなかの暗にも一点の燐光を感じた。「私の病んでいる生き物。私は暗闇のなかにやがて消えてしまう。しかしお前は睡らないでひとりおきているように思える。そとの虫のように……青い燐光・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・白粉を濃くはいた顔が夕暗に浮かんで見えた。さっきの団扇を一つずつ持っている。「お待ち遠さま。勝子は。勝子、扇持ってるか」 勝子は小さい扇をちらと見せて姉に纏いつきかけた。「そんならお母さん、行って来ますで……」 姉がそう言う・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・それでいてお露が無暗に可愛のは不思議じゃないか。 何が不思議。可愛いから可愛いので、お露とならば何時でも死ぬる。 十日前のこと、自分は縁先に出て月を眺め、朧ろに霞んで湖水のような海を見おろしながら、お露の酌で飲んでいると、ふと死んだ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・げるという了見になりました、忘れもいたしません、六月十五日の夜、七日の晩から七日目の晩でございます、お幸に一目逢いたいという未練は山々でしたが、ここが大事の場合だと、母の法名を念仏のように唱えまして、暗に乗じて山里を逃亡いたしました、その晩・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・二人はいつの間にか腹立て怒って大切なズボンやワイシャツが汗と土で汚れるのも忘れて、無暗に豚をぶん殴りだした。 豚は呻き騒ぎながら、彼等が追いかえそうと努めているのとは反対に、小屋から遠い野良の方へ猛獣の行軍のようになだれよった。 と・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・カンテラは一瞬に消えてまッ暗になった。足もとには、誰れかゞ投げ出されるように吹きとばされて、へたばっていた。それは一度も経験したことのない恐ろしく凄いものだった。ハッパの何百倍ある大音響かしれない。彼は、大地震で、山が崩れてしまったような恐・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・ 源三はいささかたじろいだ気味で、「なあに、無暗に駈け出して甲府へ行ったっていけないということは、お前の母様の談でよく解っているから、そんな事は思ってはいないけれど、余り家に居て食い潰し食い潰しって云われるのが口惜いから、叔父さんに・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・一日某新聞社員と名刺に肩書のある男尋ね来り、室に入りて挨拶するや否、早速、先生の御高説をちと伺いたし、と新聞屋の悪い癖で無暗に「人を食物にする」会話を仕出す。ところが大哲学者もとより御人好の質なれば得意になッて鼻をクンクンいわせながら饒舌り・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・これは北村君を知っていたからと云って、無暗に友達を賞めようという積りではない。成程過ぎ去った歴史上には種々優れた人もあるが、同時代にいた、しっかりした友達の方に、却って教えられた事は多いのである。 北村君が亡くなった後で、京橋鎗屋町の煙・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・困る事には、ポルジイは依怙地な奴で、それが出来ないなら云々すると、暗に種々の秘密を示して脅かす。それが総て身分不相応な事である。そこで邸では幾度となく秘密の親族会議が開かれた。弁護士や、ポルジイと金銭上の取引をしたもの共が、参考に呼び出され・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
出典:青空文庫