・・・彼は、そこを、上等兵につれられて、垢に汚れた手すりを伝って階段を登った。一週間ばかりたった後のことだ。二階へ上るとようよう地下室から一階へ上った来たような気がした。しかし、そこが二階であることは、彼は、はっきり分っていた。帰るには、階段をお・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・山間僻地のここらにしてもちと酷過ぎる鍵裂だらけの古布子の、しかもお坊さんご成人と云いたいように裾短で裄短で汚れ腐ったのを素肌に着て、何だか正体の知れぬ丸木の、杖には長く天秤棒には短いのへ、五合樽の空虚と見えるのを、樹の皮を縄代りにして縛しつ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 左らば世人が其を忌わしく恐るべしとするのは何故ぞや、言う迄もなく死刑に処せられるのは必ず極悪の人、重罪の人たることを示す者だと信ずるが故であろう、死刑に処せらるる程の極悪・重罪の人たることは、家門の汚れ、末代の恥辱、親戚・朋友の頬汚しとし・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・その前に、印も何も分らない半纒を着て、ところどころ切れて脛の出ている股引をはいた、赤黒い顔の男が立っていた。汚れた手拭を首にかけていた。龍介は今度は道をかえて、賑やかな通りへ出た。歩きながら、あの汽車で帰ったら、もう家へついて本でも読めたの・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・近くまで汁粉屋が借りていたとかで、古い穴のあいた襖、煤けた壁、汚れた障子などが眼につく。炬燵を切ったあたりは畳も焼け焦げて、紙を貼り着けてある。住み荒した跡だ。「まあ、こんなものでしょう」 と先生は高瀬に言って、一緒に奥の方まで見て・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・わけてもひどいのは、半分ほどきかけの、女の汚れた袷をそのまま丸めて懐へつっこんで来た頭の禿げた上品な顔の御隠居でした。殆んど破れかぶれに其の布を、拡げて、さあ、なんぼだ、なんぼだと自嘲の笑を浮べながら値を張らせて居ました。頽廃の町なのであり・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・石灰の灰色に汚れたのが胸をむかむかさせる。 あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々とした野の方がいい。どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠として何もない。畑にはもう熟しかけた高粱が連なっているばかりだ。けれど新鮮な空気がある、日の光・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それはまだ新しい、ちっとも汚れていないのであった。私はほとんど無意識にそれを取り上げて見ているうちに、その紙の上に現われている色々の斑点が眼に付き出した。 紙の色は鈍い鼠色で、ちょうど子供等の手工に使う粘土のような色をしている。片側は滑・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・そして彼女は汚れた肌襦袢を取りあげて、「これ洗濯に出してもいいんでしょう」「そうね。出してもらおうか」道太は東京を立つ時から繃帯をしていた腕首のところが昨日飲みすぎた酒で少し痛みだしていたので、信州で有名な接骨医からもらってきたヨヂ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・どの家にも必ず付いている物干台が、小な菓子折でも並べたように見え、干してある赤い布や並べた鉢物の緑りが、光線の軟な薄曇の昼過ぎなどには、汚れた屋根と壁との間に驚くほど鮮かな色彩を輝かす。物干台から家の中に這入るべき窓の障子が開いている折には・・・ 永井荷風 「銀座」
出典:青空文庫