・・・女ながらに気性の勝れて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。それは今は乾いてしまった。大空をわた・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・お母さんは、ひとりで考えて、涙をふいていました。 しかし、一家の都合では、どうすることもできません。いよいよ真吉の出発の日がやってきました。お母さんは、泣き顔を見せてはいけないと思って、「さあ、元気よくいっておいで。道中気をつけて、・・・ 小川未明 「真吉とお母さん」
・・・と言う声が店に聞えて立ったが、自分の泣き顔に気がついて出るのはためらった。「吉田さん、郵便!」「はい」「ここへ置きますよ」 配達夫の立ち去った後で、お光はようやく店に出て、框際の端書を拾って茶の間へ帰ったが、見ると自分の名宛・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・一度は母が泣き顔をしている傍で叔母が涙ぐんでいるのを見ましたが私は別に気にも留めず、ただちょっとこわいような気がしてすぐと茶の間を飛び出したことがありました。 私は七日も十日も泊っていたいのでございますが、長くて四日も経ちますと母が帰ろ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・といって泣き顔になったが、二年ののちそれが与えられたので私がそのときの事をいうと、「夢のようです」と今はいっている。 またすべての人が苦い別離を味わうとは限らない。自然に相愛して結婚し、幸福な家庭を作って、終生愛し通して終わる者ははなは・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・骨折の上等兵は泣き顔をした。 八 錆のきた銃をかついだ者が、週番上等兵につれられて、新しい雪にぼこ/\落ちこみながら歩いて行った。一群の退院者が丘を下って谷あいの街へ小さくなって行くと、またあとから別の群が病院の門・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・そこには母親に取縋って泣顔を埋めているおさだを見た。「ナニ、何でもないぞや。俺の手が少し狂ったかも知れんが、おさださんに火傷をさせるつもりでしたことでは無いで」 とおげんは言って、直次の養母にもおさだにも詫びようとしたが、心の昂奮は・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・それは門出の時の泣き顔ではなく、どうした場合であったか忘れたが心からかわいいと思った時の美しい笑い顔だ。母親がお前もうお起きよ、学校が遅くなるよと揺り起こす。かれの頭はいつか子供の時代に飛び返っている。裏の入江の船の船頭が禿頭を夕日にてかて・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・さあ、あまがえるはみんな泣き顔になって、うろうろうろうろやりましたがますますどうもいけません。そこへ丁度一ぴきの蟻が通りかかりました。そしてみんなが飴色の夕日にまっ青にすきとおって泣いているのを見て驚いてたずねました。「あまがえるさん。・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ するとその橙色の女のばけものはやっと気がついたと見えて俄かに泣き顔をやめて云いました。「これはどうもとんだ失礼をいたしました。あなたのおなりがあんまりせがれそっくりなもんですから。」「いいえ。どう致しまして。私は今度はじめてム・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
出典:青空文庫