・・・教科書には学校の性質上海上用語が沢山出て来る。それをちゃんと検べて置かないと、とんでもない誤訳をやりかねない。たとえば Cat's paw と云うから、猫の足かと思っていれば、そよ風だったりするたぐいである。 ある時彼は二年級の生徒に、・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ すわや海上の危機は逼ると覚しく、あなたこなたに散在したりし数十の漁船は、北るがごとく漕戻しつ。観音丸にちかづくものは櫓綱を弛めて、この異腹の兄弟の前途を危わしげに目送せり。 やがて遙に能生を認めたる辺にて、天色は俄に一変せり。――・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・北の海なる海鳴の鐘に似て凍る時、音に聞く……安宅の関は、この辺から海上三里、弁慶がどうしたと? 石川県能美郡片山津の、直侍とは、こんなものかと、客は広袖の襟を撫でて、胡坐で納まったものであった。「だけど……お澄さんあともう十五分か、二十・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ 小宮山は、妙な事を聞くと思いましたが、早速、「いや、幸い暴風雨にも逢わず、海上も無事で、汽車に間違もなかった。道中の胡麻の灰などは難有い御代の事、それでなくっても、見込まれるような金子も持たずさ、足も達者で一日に八里や十里の道は、・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 雨は海上はるかに去って、霧のような煙のような水蒸気が弱い日の光に、ぼっと白波をかすませてるのがおもしろい。白波は永久に白波であれど、人世は永久に悲しいことが多い。 予はお光さんと接近していることにすこぶる不安を感じその翌々日の朝こ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・月が、しばらく日の経った後に、このあたりの海上を照らした時は、氷が解けはじめて、海豹の鳴らしている太鼓の音が、波の間からきこえました。 小川未明 「月と海豹」
・・・町から小一里も行くとかの字港に出る、そこから船でつの字崎の浦まで海上五里、夜のうちに乗って、天明にさの字浦に着く、それから鹿狩りを初めるというのが手順であった。『まるで山賊のようだ!、』と今井の叔父さんがその太い声で笑いながら怒鳴った。・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・しかし、もう十年も家を離れ、内地を離れているような気がした。海上生活者が港にあこがれ、陸を恋しがるように、彼等は、内地にあこがれ、家庭を恋しがった。 彼等の周囲にあるものは、はてしない雪の曠野と、四角ばった煉瓦の兵営と、撃ち合いばかりだ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・しかも涼しい風のすいすい流れる海上に、片苫を切った舟なんぞ、遠くから見ると余所目から見ても如何にも涼しいものです。青い空の中へ浮上ったように広と潮が張っているその上に、風のつき抜ける日蔭のある一葉の舟が、天から落ちた大鳥の一枚の羽のようにふ・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・この港はかつて騎馬にて一遊せし地なれば、我が思う人はありやなしや、我が面を知れる人もあるなれど、海上煙り罩めて浪もおだやかならず、夜の闇きもたよりあしければ、船に留まることとして上陸せず。都鳥に似たる「ごめ」という水禽のみ、黒み行く浪の上に・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
出典:青空文庫