・・・勤め人の主は、晩酌の酔がまださめず、火鉢の側に胡座をかいて、にやにやしていた。「どうして未だなかなか。」「七十幾歳ですって?」「七十三になりますがね。もう耳が駄目でさ。亜鉛屋根にパラパラと来る雨の音が聞えなくなりましたからね、随・・・ 徳田秋声 「躯」
一 小庭を走る落葉の響、障子をゆする風の音。 私は冬の書斎の午過ぎ。幾年か昔に恋人とわかれた秋の野の夕暮を思出すような薄暗い光の窓に、ひとり淋しく火鉢にもたれてツルゲネーフの伝記を読んでいた。 ツルゲネーフはまだ物心もつ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・唯一つの火鉢へ二三人が手を翳して居る。他の瞽女はぽっさり懐手をして居る。みんな唄の疲が出たせいか深い思に沈んだようにして首をかしげて居る。太十は尚お去ろうともしなかった。突然戸が開いた。太十は驚いて身を引いた。其機会に流し元のどぶへ片足を踏・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と飲みさしの巻煙草を火鉢の灰の中へ擲き込む。燃え残りのマッチの散る中に、白いものがさと動いて斜めに一の字が出来る。「とにかく旧弊な婆さんだな」「旧弊はとくに卒業して迷信婆々さ。何でも月に二三返は伝通院辺の何とか云う坊主の所へ相談に行・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 次の間の長火鉢で燗をしながら吉里へ声をかけたのは、小万と呼び当楼のお職女郎。娼妓じみないでどこにか品格もあり、吉里には二三歳の年増である。「だッて、あんまりうるさいんだもの」「今晩もかい。よく来るじゃアないか」と、小万は小声で・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・店の次の間に大きな唐金の火鉢を出して主人がどっかり座っていた。「旦那さん、先ころはどうもありがどうごあんした」 あの山では主のような小十郎は毛皮の荷物を横におろして叮ねいに敷板に手をついて言うのだった。「はあ、どうも、今日は何の・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・ 婆さんが出てから振返って見ると、朱塗りの丸盆の上に椀と飯茶碗と香物がのせられ、箱火鉢の傍の畳に直に置いてあった。陽子は立って行って盆を木箱の上にのせた。上り端の四畳の彼方に三畳の小間がある。そこが夫婦の寝起きの場所で夕飯が始まったらし・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・雛鶏と家鴨と羊肉の団子とを串した炙き串三本がしきりに返されていて、のどかに燃ゆる火鉢からは、炙り肉のうまそうな香り、攣れた褐色の皮の上にほとばしる肉汁の香りが室内に漂うて人々の口に水を涌かしている。 そこで百姓のぜいたくのありたけがシュ・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
朝小間使の雪が火鉢に火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿の部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。「おや。さようでございましたか。先っき瓦斯煖炉に火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって・・・ 森鴎外 「かのように」
一 夏目先生の大きい死にあってから今日は八日目である。私の心は先生の追懐に充ちている。しかし私の乱れた頭はただ一つの糸をも確かに手繰り出すことができない。私は夜ふくるまでここに茫然と火鉢の火を見まもっていた。 昨日私は先生に・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫