・・・ 陳はほとんど無表情に、じろりと相手の顔を眺めた。「今日は御苦労でした。」「先ほど電話をかけましたが、――」「その後何もなかったですか?」 陳の語気には、相手の言葉を弾き除けるような力があった。「何もありません。奥さ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 彼等はほとんど無表情に、隠すべき所も隠そうとせず、検査の結果を眺めていた。が、ズボンや上着は勿論、靴や靴下を検べて見ても、証拠になる品は見当らなかった。この上は靴を壊して見るよりほかはない。――そう思った副官は、参謀にその旨を話そうと・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・彼女は不相変無表情にじっと部屋の隅へ目をやったなり、薄赤い絨氈の上に横わっていた。「この女は人間よりも動物に似ている。」――わたしは画架にブラッシュをやりながら、時々そんなことを考えたりした。 ある生暖い風の立った午後、わたしはやはり画・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・監督はいつものとおり無表情に見える声で、「いえなに……」 と曖昧に答えた。父は蒲団の左角にひきつけてある懐中道具の中から、重そうな金時計を取りあげて、眼を細めながら遠くに離して時間を読もうとした。 突然事務所の方で弾条のゆるんだ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・仁右衛門は無表情な顔をして口をもごもごさせながら馬の眼と眼との間をおとなしく撫でていたが、いきなり体を浮かすように後ろに反らして斧を振り上げたと思うと、力まかせにその眉間に打ちこんだ。うとましい音が彼れの腹に応えて、馬は声も立てずに前膝をつ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 女は無表情な顔をして酒を持って入ってきた。口の欠けた銚子が二本と章魚の酢ものと魚の煮たものだった。すぐあとから別な背の低い唇の厚い女が火を持ってきた。が、火鉢に移すと、何も言わずに出ていった。 寒かった、龍介はテーブルを火鉢の側に・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・私は、阿呆のような無表情にちがいない。ただ、ぬっとつっ立っている。あによめの顔には、たしかに、恐怖の色があらわれる。ここに立っているこの男は、この薄汚い中年の男は、はたしてわたしの義弟であろうか。ねえさん、ねえさんと怜悧に甘えていた、あの痩・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ キヌ子は無言で立上る。青木さんも無言で、キヌ子のスカートなど直してやる。田島は、一足さきに外に飛び出す。 ああ、別離は、くるしい。 キヌ子は無表情で、あとからやって来て、「そんなに、うまくも無いじゃないの。」「何が?」・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・箱のように無表情であった。 馬場は音たかく舌打ちして、「おい佐竹、からかうのはやめろ。ひとを平気でからかうのは、卑劣な心情の証拠だ。罵るなら、ちゃんと罵るがいい」「からかってやしないよ」しずかにそう応えて、胸のポケットからむらさき色・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・(夢遊病者の如くほとんど無表情で歩き、縁側から足袋僕も行く。野中教師、ほとんど歩行困難の様子だが、よろめき、よろめき、足袋はだしのまま奥田教師たちのあとを追い下手に向う。節子、冷然と坐ったままでいたのであるが、ふ・・・ 太宰治 「春の枯葉」
出典:青空文庫