・・・白糸 (衣紋を直し、しめやかに手を支お初に……お姑様、おっかさん、たとい欣さんには見棄てられても、貴女にばかりは抱ついて甘えてみとうござんした。おっかさん、私ゃ苦労をしましたよ。……御修業中の欣さんに心配を掛けてはならないと何にも言わず・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・……その上なおお言葉に甘えますようですけれど、お散歩の方へ……たとい後へ離れましても、御一所に願えますと、立派に人目が忍べます。――貴方(弱く媚どうぞ、お連れ下さいましな。画家 それは迷惑です。夫人 まあ。――いいえ、お連れ下さいま・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・まあさぞお草臥なさいまして、お眠うもございましょうし、お可煩うございましょうのに、つい御言葉に甘えまして、飛んだ失礼を致しました。」 人にも言わぬ積り積った苦労を、どんなに胸に蓄えておりましたか、その容体ではなかなか一通りではなかろうと・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・、えい心持ったらなかった、伯父さん鎌を六丁買ってきて、家でばっかそんなにいるかいちもんだから、おれがこれこれだと話すと、そんなら一丁家へもおくんなさいなという、改まって挨拶するかと思うと、あとから直ぐ甘えたことをいう、そうされると又妙に憎く・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・だから、娘のその言葉、そしてその声は、何か安心したようにも、甘えて小沢を責めているようにも、そしてまた、恐縮しているようにも聴えた。「そんなン困るわ」 といったが、一体どういう風に困るのか、いや、本当に困るのか、小沢にはさっぱりその・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 梅ちゃんは十歳の年から世話になったが、卒業しないで退校ても先生別に止めもしなかった、今は弟の時坊が尋常二年で、先生の厄介になっている、宅へ帰ると甘えてしかたがないが学校では畏れている。 先生の中二階からはその屋根が少しばかりしか見・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・その事務員は道具だての大きい派手な美しい顔の女だったが、常に甘えたようなものの言い方をしていた。老人や子供達にはケンケンして不親切であったが、清三に金を送りに行った時だけは、何故か為吉にも割合親切だった。 両人は、それぞれ田舎から持って・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・と少し甘えて言う。男は年も三十一二、頭髪は漆のごとく真黒にて、いやらしく手を入れ油をつけなどしたるにはあらで、短めに苅りたるままなるが人に優れて見好きなり。されば兀ちょろ爺と罵りたるはわざとになるべく、蹙足爺とはいつまでも起き出でぬ故な・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・と鞠子は首を振ったが、間もなく母の傍へ行って、親子でパンを食った。「鞠ちゃんにくれるくれるッて言って、皆な母ちゃんが食って了う」と鞠子は甘えた。 この光景を笑って眺めていた高瀬は自分の方へ来た鞠子に言った。「これ、悪戯しちゃ不可・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・これまで多くの人々はふだんの平和に甘えて、だらけた考におち、お金の上でも、間違った、むだのついえの多い生活をしていた点がどれだけあったかわかりません。この大変災を機会として、すべての人が根本に態度をあらためなおし、勤勉質実に合理的な生活をす・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
出典:青空文庫