・・・識と記すべき法なるを、ある時、林大学頭より出したる受取書に、楷書をもって尋常に米と記しければ、勘定所の俗吏輩、いかでこれを許すべきや、成規に背くとて却下したるに、林家においてもこれに服せず、同家の用人と勘定所の俗吏と一場の争論となりて、・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・本多は九郎右衛門に百石遣って、用人の上席にした。りよへも本多から「反物代千疋」を贈り、本多の母から「縞縮緬一反、交肴一折」を贈った。 文吉は酒井家の目附役所に呼び出されて、元表小使、山本九郎右衛門家来と云う資格で、「格段骨折奇特に附、小・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・しかし相談中をやめられて、用人格というものになっただけで、勤め向きは前の通りであった。五十七のとき蝦夷開拓論をした。六十三のとき藩主に願って隠居した。井伊閣老が桜田見附で遭難せられ、景山公が亡くなられた年である。 家は五十一のとき隼町に・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫