・・・――彼女はふと女学校の教科書にそんなことも書いてあったように感じ、早速用箪笥の抽斗から古い家政読本を二冊出した。それ等の本はいつの間にか手ずれの痕さえ煤けていた。のみならずまた争われない過去の匂を放っていた。たね子は細い膝の上にそれ等の本を・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・大丈夫、それにあの人は大酒を飲むの何のと乱暴はしないし』と受け合い、鬢の乱を、うるさそうにかきあげしその櫛は吉次の置土産、あの朝お絹お常の手に入りたるを、お常は神のお授けと喜び上等ゆえ外出行きにすると用箪笥の奥にしまい込み、お絹は叔母に所望・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・鍵は用箪笥のを用いたらしい。革包の中を見てどんなにか驚いたろう。思うに自分が盗んだものと信じたに違いない。然し書置などは見当らなかった。 何故死んだか。誰一人この秘密を知る者はない。升屋の老人の推測は、お政の天性憂鬱である上に病身でとか・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・戸棚から、用箪笥から、古い手紙の中までも探した。彼女が夫に宛てて書いたということは極く稀だった。それすら何処かへ散じて了った。 刺繍が出て来た。彼女の手縫にしたものだ。好い記念だ。紅い薔薇の花弁が彼女の口唇を思わせるように出来ている。大・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・ 幾度となくおじぎをしては私を見上げる彼の悲しげな眼を見ていた私は、立って居室の用箪笥から小紙幣を一枚出して来て下女に渡した。下女は台所の方に呼んでそれをやった。 私が再びオルガンの前に腰を掛けると彼はまた縁側へ廻って来て幾度となく・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・そのときは誰も知らず、しかも用箪笥が裏の茶の木の横までかつぎ出してあった。なかのものがその辺にとりちらされ、鼈甲のしんに珊瑚の入った花の簪が早朝の黒い土に落ちて、濡れていた。 一番終りのときは、弟二人が大きくなっていた。上の弟が夜あけに・・・ 宮本百合子 「からたち」
・・・ただ、机や用箪笥の鍵が共に無くなったのは不便であった。其とても、世間に同型のものが無いわけではない。――愛が心を曇らせたのは、小幡が此那ことで来なくなったりするのではないかと云うことであった。彼等にとって彼女は、無二の友というのではない。け・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・「奥の用箪笥が、遊動円木の傍に出て、ごちゃごちゃになって居ます。と云う。 私はハット思った。 さてこそ、到頭入ったな? 頬かぶりで、出刃を手拭いで包んだ男が、頭の中を忍び足で通り過ぎた。 私は大いそぎで、まだカー・・・ 宮本百合子 「盗難」
・・・ 朝日の吸殻を、灰皿に代用している石決明貝に棄てると同時に、木村は何やら思い附いたという風で、独笑をして、側の机に十冊ばかり積み上げてある manuscrits らしいものを一抱きに抱いて、それを用箪笥の上に運んだ。 それは日出新聞・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫