・・・それが下りて行くと、妻はそとへも聴えるような甲高な声で、なお罵詈罵倒を絶たなかった。「あなたは色気狂いになったのですか?――性根が抜けたんですか?――うちを忘れたんですか? お父さんが大変おこってらッしゃるのを知らないでしょう?――」・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・足袋屋の小僧が木の型に入れて指先の形を好くしてくれたり、滑かな石の上に折重ねて小さな槌でコンコン叩いてくれたりした、その白い新鮮な感じのする足袋の綴じ紙を引き切って、甲高な、不恰好な足に宛行って見た。「どうして、田舎娘だなんて、真実に馬・・・ 島崎藤村 「足袋」
・・・ そこへコケットのダンサーが一人登場して若い方の靴磨きにいきなり甲高なコケトリーを浴びせかける。本当の銀座の鋪道であんな大声であんな媚態を演じるものがあったら狂女としか思われないであろうが、ここは舞台である。こうしないと芝居にならないも・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・恐ろしく美々しい衣装を着た役者がおおぜいではげしい立ち回りをやったり、甲高い悲しい声で歌ったりした。囃の楽器の音が耳の痛くなるほど騒がしかった。ふたをした茶わんに茶を入れて持って来た。熱湯で湿した顔ふきを持って来た。……少しセンチメンタルに・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・どうか十文の講演をやってくれ、あそこは十一文甲高の講演でなければ困るなどと注文される。そのくらいに私が演説の専門家になっていれば訳はありませんが私の御手際はそれほど専門的に発達していない。素人が義理に東京からわざわざ明石辺までやって来るとい・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・廊下では例によってフランスのお爺さんと毛糸屋さんとが特徴のある年よりらしい甲高声で、何とか何とかネスパ? ああウイウイと話しながら往ったり来たりしている。 このごろは、体じゅう引き潮加減ながら調和した感じなのだが、まだ時々、肉体の内にの・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・一人が低い声で仕事とリズムを合わせて唄い出すと、やがて一人それに加わり、また一人加わり、終には甲高な声をあげ、若い女工まで、このストトン、ストトンという節に一種センチメンタルな哀愁さえ含ませて一同合唱する。 何とかして通やせぬストトン、・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・中年の女の声で、余り甲高にとりみだしておろおろ物を云っているので、何ごとかとつい注意をひかれたら、その電話は子供の先生へ母親が何か紛失物の申しわけをしているのであった。くりかえし哀願するように、どうぞもうこの一週間だけ御容赦下さいませ。・・・ 宮本百合子 「新入生」
・・・いかにも学年試験で亢奮しているらしく、争って場席をとりながら甲高な大きな声で喋り、「アラア、だって岡崎先生がそう云ってたよ、金曜日だってよ」「豊ちゃん! と、よ、ちゃんてば! 飯田さんやめたよ」 次の駅でその女学生たちは大抵降り・・・ 宮本百合子 「東京へ近づく一時間」
・・・Aは、先頃から彼女の、神経を疲らす甲高声と、子供扱いとに、飽きが来て居た。何処か性に合わない処もあるらしい。やめたいとは、前から云って居たことだが、此方から来ないかと云って来させ、もう帰れとは云えない。それが、此、刹那にすっかり位置が変り、・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
出典:青空文庫