・・・吾等の心象中微塵ばかりも善の痕跡を発見することができない。この世界に行わるる吾等の善なるものは畢竟根のない木である。吾等の感ずる正義なるものは結局自分に気持がいいというだけの事である。これは斯うでなければいけないとかこれは斯うなればよろしい・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・のをひきずったままでの近代資本主義社会への移行であった。明治維新の誰でも知っているこういう特質は、「四民平等」となって、ふるい士農工商の身分制を一応とりさったようでも、数百年にわたった「身分」の痕跡は、人民生活のなかに強くのこりつづけた。明・・・ 宮本百合子 「新しいアカデミアを」
・・・なぜならば、人間性をそのように畸型な傴僂にした権力は、よしんば急に崩壊したとしても、けっしてそれと同じ急テンポで、人間性に加えられた抑圧の痕跡、その傴僂は癒されないものとして残されているからである。それのみか、一年の時を経た昨今、彼らは呆然・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
・・・見るも痛々しい浮沈をくりかえして、公民権さえもついに誕生し得ないまま未曾有の世界史的変化に当面しているという今日の現実は、明日における主婦たちの政治的自覚を期待する上に、消すことのできない大きい深刻な痕跡を刻みつけているものであることを、私・・・ 宮本百合子 「女性の歴史の七十四年」
・・・然し、この作品は自分の生活と密接な関係のあったものだし、作の上に年輪のように発育の痕跡が現れて居る点、自分は愛を感じて居る。 昭和二年十一月二十三日〔一九二八年三月〕 宮本百合子 「序(『伸子』)」
・・・そういう不幸な痕跡をもった人々がきょうの情勢を主観的にせきたって判断すれば、病気だといっても、何だその位という気風もおこるだろう。外へも出られないというのが本当ならどうして小説が書けている、と特高の論法になるかもしれない。 わたしにどん・・・ 宮本百合子 「孫悟空の雲」
・・・正面から攻撃しなくなったとき、それは、嘗て打撃を加えたその痕跡から、そのひずみから、なお襲いかかって来る。ひろ子は、頬をもたせている重吉の左の膝の上の方を考え沈みながら撫でた。そこに、着物の上からもかすかにわかる肉の凹みがあった。大腿のとこ・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・今の私はなお自欺と自己弁護との痕跡を、十分消し去ることができない。自己弁護はともすれば浮誇にさえも流れる。それゆえ私は苦しむ。真実を愛するがゆえに私は苦しむ。六 私は自分に聞く。――お前にどんな天分があるか。お前の自信が虫の・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・これほどの大事件が深い痕跡を残さずにすむものか。二 われわれの経験は時間と空間との相違によって著しく強さを異にするものである。 ある事件を一か月の間に経験するのと、一か年に引きのばして経験するのとでは、その印象の深さがま・・・ 和辻哲郎 「世界の変革と芸術」
・・・しかしこの期間の生活の痕跡を一身に受けている純一君は、明らかにその反証を見せてくれたのである。『道草』に書かれた時代よりも後に生まれた純一君は、父親を「気違いじみた癇癪持ち」として心に烙きつけていた。それは容易に消すことができないほど強い印・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫