・・・ 毎夜、弁天橋へ最後の船を着けると、後へ引返してかの石碑の前を漕いで、蓬莱橋まで行ってその岸の松の木に纜っておいて上るのが例で、風雨の烈しい晩、休む時はさし措き、年月夜ごとにきっとである。 且つ仕舞船を漕ぎ戻すに当っては名代の信者、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・入口の石の鳥居の左に、とりわけ暗く聳えた杉の下に、形はつい通りでありますが、雪難之碑と刻んだ、一基の石碑が見えました。 雪の難――荷担夫、郵便配達の人たち、その昔は数多の旅客も――これからさしかかって越えようとする峠路で、しばしば命を殞・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・三方崩れかかった窪地の、どこが境というほどの杭一つあるのでなく、折朽ちた古卒都婆は、黍殻同然に薙伏して、薄暗いと白骨に紛れよう。石碑も、石塔も、倒れたり、のめったり、台に据っているのはほとんどない。それさえ十ウの八つ九つまでは、ほとんど草が・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・苔に惑い、露に辷って、樹島がやや慌しかったのは、余り身軽に和尚どのが、すぐに先へ立って出られたので、十八九年不沙汰した、塔婆の中の草径を、志す石碑に迷ったからであった。 紫袱紗の輪鉦を片手に、「誰方の墓であらっしゃるかの。」 少・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ いま辻町は、蒼然として苔蒸した一基の石碑を片手で抱いて――いや、抱くなどというのは憚かろう――霜より冷くっても、千五百石の女じょうろうの、石の躯ともいうべきものに手を添えているのである。ただし、その上に、沈んだ藤色のお米の羽織が袖・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・そこには両方の国から、ただ一人ずつの兵隊が派遣されて、国境を定めた石碑を守っていました。大きな国の兵士は老人でありました。そうして、小さな国の兵士は青年でありました。 二人は、石碑の建っている右と左に番をしていました。いたってさびしい山・・・ 小川未明 「野ばら」
・・・ 城門前の石碑のあるあたりから、鉄道の線路を越え、二人は砂まじりの窪い道を歩いて行った。並んだ石垣と桑畠との見える小高い耕地の上の方には大手門の残ったのが裏側から望まれた。先生はその高い瓦屋根を高瀬に指して見せた。初めて先生が小諸へ移っ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・「ああ、このお宮の石碑みたい。」路傍に、金色夜叉の石碑が立っている。「僕、いちばん単純なことを言おうか。K、まじめな話だよ。いいかい? 僕を、――」「よして! わかっているわよ。」「ほんとう?」「私は、なんでも知っている・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・ そこにはすでに友人たちの立てた自然石の大きな石碑が立てられてあった。そこに、恋もあり、涙もあり、未死の魂もあり、日本国民としての可憐の愛国心が生きて蘇ってきているのであった。私は野に咲いた花を折ってきてそこに手向けた。 私は秋の日・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・ この道の分れぎわに榎の大木が立っていて、その下に一片の石碑と、周囲に石を畳んだ一坪ほどの池がある。 今年の春、田家にさく梅花を探りに歩いていた時である。わたくしは古木と古碑との様子の何やらいわれがあるらしく、尋常の一里塚ではないよ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫