・・・「この砥石が一挺ありましたらあ、今までのよに、盥じゃあ、湯水じゃあとウ、騒ぐにはア及びませぬウ。お座敷のウ真中でもウ、お机、卓子台の上エでなりとウ、ただ、こいに遣って、すぅいすぅいと擦りますウばかりイイイ。菜切庖丁、刺身庖丁ウ、向ウへ向・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・家の前庭はひろく砥石のように美しい。ダリヤや薔薇が縁を飾っていて、舞台のように街道から築きあげられている。田舎には珍しいダリヤや薔薇だと思って眺めている人は、そこへこの家の娘が顔を出せばもう一度驚くにちがいない。グレートヘンである。評判の美・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ 五十年前に父が買った舶来のペンナイフは、今でも砥石をあてないでよく切れるのに、私がこのあいだ買った本邦製のはもう刃がつぶれてしまった。古ぼけた前世紀の八角の安時計が時を保つのに、大正できの光る置き時計の中には、年じゅう直しにやらなけれ・・・ 寺田寅彦 「断水の日」
・・・ 剃刀をとぐ砥石を平坦にするために合わせ砥石を載せてこすり合わせて後に引きはがすときれいな樹枝状の縞が現われる。平田森三君が熱したガラス板をその一方の縁から徐々に垂直に水中へ沈めて行くとこれによく似た模様が現われると言っている。写真乾板・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・老母は錆びた庖丁を砥石にかけて、ごしごしやっていた。「これおいしいですよ。私大事に取っておいたの」お絹は言っていた。「その庖丁じゃおぼつかないな」道太はちょっと板前の心得のありそうな老母の手つきを、からかい半分に眺めていた。「庖・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・歌の主は腕を高くまくって、大きな斧を轆轤の砥石にかけて一生懸命に磨いでいる。その傍には一挺の斧が抛げ出してあるが、風の具合でその白い刃がぴかりぴかりと光る事がある。他の一人は腕組をしたまま立って砥の転るのを見ている。髯の中から顔が出ていてそ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・そこでみんなは、なるべくそっちを見ないふりをしながら、いっしょに砥石をひろったり、鶺鴒を追ったりして、発破のことなぞ、すこしも気がつかないふりをしていました。 すると向こうの淵の岸では、下流の坑夫をしていた庄助が、しばらくあちこち見まわ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ぼくらは、淵の下流の、瀬になったところに立った。「知らないふりして遊んでろ。みんな。」しゅっこが云った。ぼくらは、砥石をひろったり、せきれいを追ったりして、発破のことなぞ、すこしも気がつかないふりをしていた。 向うの淵の岸では、庄助・・・ 宮沢賢治 「さいかち淵」
・・・ そこで砥石に水が張られすっすと払われ、秋の香魚の腹にあるような青い紋がもう刃物の鋼にあらわれました。 ひばりはいつか空にのぼって行ってチーチクチーチクやり出します。高い処で風がどんどん吹きはじめ雲はだんだん融けていっていつかすっか・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
・・・ 私たちは河原にのぼって、砥石になるような柔らかな白い円い石を見ました。ほんとうはそれはあんまり柔らかで砥石にはならなかったかも知れませんが、とにかく私たちはそう云う石をよく砥石と云って外の硬い大きな石に水で擦って四角にしたものです。慶・・・ 宮沢賢治 「鳥をとるやなぎ」
出典:青空文庫