・・・くずおれておかあさんはひざをつき、子どもをねかしてその上を守るように自分の頭を垂れますと、長い毛が黒いベールのように垂れ下がりました。 しかして両手をさし出してだまったなりでいのりました。子どもの額からは苦悶の汗が血のしたたりのように土・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・スバーは、極く小さい子供の時から、神が何かの祟りのように自分を父の家にお遣しになったのを知っていたのでなみの人々から遠慮し、一人だけ離れて暮して行こうとしました。若し皆が、彼女のことをすっかり忘れ切って仕舞っても、スバーは、ちっとも其を辛い・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべき路すこしずつ、そのおのれの作品に依って知らされ、ま、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い小説に取りかかった。 昨年、九月、甲州の・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・ この店に這入って据わると、誰でも自分の前に、新聞を山のように積み上げられる。チルナウエルもその新聞の山の蔭に座を占めていて、隣の卓でする話を、一言も聞き漏さないように、気を附けている。中には内で十分腹案をして置いて、この席で「洒落」の・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。 褐色の道路――砲車の轍や靴の跡や草鞋の跡が深く印したままに石のように乾いて固くなった路が前に長く通じている。こういう満州の道路にはかれはほとんど愛想・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・こないだ電車から飛び下りておれのわざと忘れて置いた包みを持って来てくれて、自分の名刺をくれた男である。 おれはそいつのふくらんだ腹を見て、ポッケットに入れていたナイフを出してそのナイフに付いていた十二本の刃を十二本ともそいつの腹へずぶり・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・しかし家庭の経済は楽でなかったから、ともかくも自分で働いて食わなければならないので、シャフハウゼンやベルンで私教師を勤めながら静かに深く物理学を勉強した。かなりに貧しい暮しをしていたらしい。その時分の研学の仲間に南ロシアから来ている女学生が・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・生活のまったく絶息してしまったようなこの古い鄙びた小さな都会では、干からびたような感じのする料理を食べたり、あまりにも自分の心胸と隔絶した、朗らかに柔らかい懈い薄っぺらな自然にひどく失望してしまったし、すべてが見せもの式になってしまっている・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ はたで眺めるぶんには、仕事も気楽に見えるが、実際自分でやるとなると、たかがこんにゃく売りくらいでも、なかなか骨が折れるものだ。 ――こんにゃはァ、こんにゃはァ、 ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・母親は下女まかせには出来ないとて、寒い夜を台所へと立って行かれる。自分は幼心に父の無情を憎く思った。 年の暮が近いて、崖下の貧民窟で、提灯の骨けずりをして居た御維新前のお籠同心が、首をくくった。遠からぬ安藤坂上の質屋へ五人連の強盗が這入・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫