・・・一同暫くは茫然としていた。笑談だろうか。この貴族先生の顔色を見るに、そうは受け取れない。世界を一周する。誰一人それを望まないものはない。しかしどんな条件があるのだろうと、誰も猶予する。「僕がしましょう。」興奮の余りに、上わ調子になった声・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・そうして遠いロシアの新映画の先頭に立つ豪傑の慧眼によって掘り出され利用されて行くのを指をくわえて茫然としていなければならないのである。しかも、ロシア人にほんとうに日本の俳諧が了解されようとは考えにくいのに、それだのにそのロシア人の目を一度通・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・哀れな人間の科学はただ茫然として口をあいてこれをながめるほかはない。これが神秘でなくて何であろうか。この実在の怪物と、たとえばウェルズの描いた火星の人間などを比較しても、人間の空想の可能範囲がいかに狭小貧弱なものであるかを見せつけられるよう・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・それよりは矢張見馴れた菊塢が庭を歩いて、茫然として病樹荒草に対していた方が、まだしも不快なる感を起すまいと思うのである。 菊塢の百花園は世人の知るが如く亀戸村の梅園に対して新梅荘と称せられていたが、梅は次第に枯死し、明治四十三年八月の水・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・ 茫然たるアーサーは雷火に打たれたる唖の如く、わが前に立てる人――地を抽き出でし巌とばかり立てる人――を見守る。口を開けるはギニヴィアである。「罪ありと我を誣いるか。何をあかしに、何の罪を数えんとはする。詐りは天も照覧あれ」と繊き手・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・彼は木柵を盾にして、グラウンドの灰色の景色をながめた。その時にはもう深谷の姿は見えなかった。彼は茫然として立ちつくした。なぜかならいくら風のように速い深谷であっても、神通力を持っていないかぎり、そんなに早くグラウンドを通り抜け得るはずがなか・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・善吉はびッくりして起き上ッて急いで障子を開けて見ると、上草履の主ははたして吉里であッた。善吉は茫然として見送ッていると、吉里は見返りもせずに自分の室へ入ッて、手荒く障子を閉めた。 善吉は何か言おうとしたが、唇を顫わして息を呑んで、障子を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・法律は政府がこしらえるもの、その政府はなお大きい力におされているもの、悲しくもあきらめて徳川時代の農民のように、その人々を養い利潤させる年貢ばかりをさし出して、茫然とことのなりゆきを見ているしか、わたしたちにすることはないわけだろうか。・・・ 宮本百合子 「偽りのない文化を」
・・・この場に詰めていた侍どもも、不意の出来事に驚きあきれて、茫然として見ていたが、権兵衛が何事もないように、自若として五六歩退いたとき、一人の侍がようよう我に返って、「阿部殿、お待ちなされい」と呼びかけながら、追いすがって押し止めた。続いて二三・・・ 森鴎外 「阿部一族」
一 夏目先生の大きい死にあってから今日は八日目である。私の心は先生の追懐に充ちている。しかし私の乱れた頭はただ一つの糸をも確かに手繰り出すことができない。私は夜ふくるまでここに茫然と火鉢の火を見まもっていた。 昨日私は先生に・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫