・・・純粋な昔ふうのいわゆる草木染めで、化学染料などの存在はこの老人の夢にも知らぬ存在であった。この老人の織ったふとん地が今でもまだ姉の家に残っているが、その色がちっともあせていないと言って甥のZが感嘆して話していた。 いつであったか、銀座資・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・現代の日本人は祖国に生ずる草木の凡てに対して、過去の日本人の持っていたほどの興味を持たないようになった。わたくしは政治もしくは商工業に従事する人の趣味については暫く擱いて言わぬであろう。画家文士の如き芸術に従事する人たちが明治の末頃から、祖・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
汽車の窓から怪しい空を覗いていると降り出して来た。それが細かい糠雨なので、雨としてよりはむしろ草木を濡らす淋しい色として自分の眼に映った。三人はこの頃の天気を恐れてみんな護謨合羽を用意していた。けれどもそれがいざ役に立つとなるとけっし・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・また、草木に施す肥料の如き、これに感ずるおのおの急緩の別あり。野菜の類は肥料を受けて三日、すなわち青々の色に変ずといえども、樹木は寒中これに施してその効験は翌年の春夏に見るべきのみ。 いま人心は草木の如く、教育は肥料の如し。この人心に教・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・山の影は広い谷間に充ちて、広野の草木の緑に灰色を帯びさせている。山の頂の夕焼は最後の光を見せている。あの広野を女神達が歩いていて、手足の疲れる代りには、尊い草を摘み取って来るのだが、それが何だか我身に近付いて来るように思われる。あの女神達は・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・それから僕が通ると草木はみんな丈夫になるよ。悪い空気も持って行っていい空気も運んで来る。東京の浅草のまるで濁った寒天のような空気をうまく太平洋の方へさらって行って日本アルプスのいい空気だって代りに持って行ってやるんだ。もし僕がいなかったら病・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・必ず或る消長があります。草木が宇宙の季節を感じるように、一日に暁と白昼と優しい黄昏の愁があるように、推移しずにはいません。いつか或るところに人間をつき出します。それが破綻であるか、或いは互いに一層深まり落付き信じ合った愛の団欒か、互いの性格・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・といらえつつ、二足三足つきてゆけば、「かしこなる陶物の間見たまいしや、東洋産の花瓶に知らぬ草木鳥獣など染めつけたるを、われに釈きあかさん人おん身のほかになし、いざ」といいて伴いゆきぬ。 ここは四方の壁に造りつけたる白石の棚に、代々の君が・・・ 森鴎外 「文づかい」
・・・ 折から草木を烈しく揺ッて野分の風が吹いて来た。野原の急な風……それはなかなか想像のほかで、見る間に草の茎や木の小枝が砂と一途にさながら鳥の飛ぶように幾万となく飛び立ッた。そこで話もたちまち途切れた。途切れたか、途切れなかッたか、風の音・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・山川草木はことごとく浄光を発して光り輝く。そういったような気持ちを寺田さんは我々に伝えてくれるのである。こうしてあの小さい電車のなかの一時間は自分には実に楽しいものになった。 あの日は寺田さんは非常に元気であった。電車へ飛び込んで来られ・・・ 和辻哲郎 「寺田さんに最後に逢った時」
出典:青空文庫