・・・突きおとされた豆腐屋の末っ子は落下しながら細長い両脚で家鴨のように三度ゆるく空気を掻くようにうごかして、ぼしゃっと水面へ落ちた。波紋が流れにしたがって一間ほど川下のほうへ移動してから波紋のまんなかに片手がひょいと出た。こぶしをきつく握ってい・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・それでもし虻が花の蕊の上にしがみついてそのままに落下すると、虫のために全体の重心がいくらか移動しその結果はいくらかでも上記の反転作用を減ずるようになるであろうと想像される。すなわち虻を伏せやすくなるのである。こんなことは右の句の鑑賞にはたい・・・ 寺田寅彦 「思い出草」
・・・科学上の新知識、新事実、新学説といえども突然天外から落下するようなものではない。よくよく詮議すればどこかにその因って来るべき因縁系統がある。例えば現代の分子説や開闢説でも古い形而上学者の頭の中に彷徨していた幻像に脈絡を通じている。ガス分子論・・・ 寺田寅彦 「科学上の骨董趣味と温故知新」
・・・いちばんおもしろいのは、三艘の大飛行船が船首を並べて断雲の間を飛行している、その上空に追い迫った一隊の爆撃機が急速なダイヴィングで小石のごとく落下して来て、飛行船の横腹と横腹との間の狭い空間を電光のごとくかすめては滝壺のつばめのごとく舞い上・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・一番面白いのは、三艘の大飛行船が船首を並べて断雲の間を飛行している、その上空に追い迫った一隊の爆撃機が急速なダイヴィングで礫のごとく落下して来て、飛行船の横腹と横腹との間の狭い空間を電光のごとくかすめては滝壷の燕のごとく舞上がる光景である。・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・雨の落下の流れに対してあひるに可能な最小な断面を向けるような格好をしている。科学も何も知らないあひるは、本能に教えられて最も合理的な行動をすると見える。人間はどうかすると未熟な科学の付け焼き刃の価値を過信して、時々鳥獣に笑われそうな間違いを・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・赤熱した岩片が落下して表面は急激に冷えるが内部は急には冷えない、それが徐々に冷える間は、岩質中に含まれたガス体が外部の圧力の減った結果として次第に泡沫となって遊離して来る、従って内部が次第に海綿状に粗鬆になると同時に膨張して外側の固結した皮・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・一例を挙ぐれば、学者は掌中の球を机上に落す時これが垂直に落下すべしと予言す。しかるに偶然窓より強き風が吹き込みて球が横に外れたりとせよ。俗人の眼より見ればこの予言は外れたりと云う外なかるべし。しかし学者は初め不言裡に「かくのごとき風なき時は・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・ 物理学の初歩の教科書を見ると、地球重力による物体落下の加速度は毎秒毎秒九・八メートルであると書いてある。しかしデパートの屋上から落とした一枚の鼻紙は決してこの方則には従わないのである。重力加速度に関する物理の方則は空気の抵抗や風の横圧・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・たとえば講演でもしようとして最初の言葉を言おうとするときにきっと上の入れ歯が自然にぽたりと落下して口をふさごうとするのである。緊張のために口の中のどこかがどうにか変形するためらしい。いやな気持ちがあごをゆがめるのかもしれない。 入れ歯と・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫