・・・―― 僕の目を覚ました時にはもう軒先の葭簾の日除けは薄日の光を透かしていた。僕は洗面器を持って庭へ下り、裏の井戸ばたへ顔を洗いに行った。しかし顔を洗った後でも、今しがた見た夢の記憶は妙に僕にこびりついていた。「つまりあの夢の中の鮒は識域・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ちょうど薄日に照らされた窓は堂内を罩めた仄暗がりの中に、受難の基督を浮き上らせている。十字架の下に泣き惑ったマリヤや弟子たちも浮き上らせている。女は日本風に合掌しながら、静かにこの窓をふり仰いだ。「あれが噂に承った南蛮の如来でございます・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ 洋一はちょいとためらった後、大股に店さきへ出かけて行くと、もう薄日もささなくなった、もの静な往来を眺めまわした。「来そうもないな。まさか家がわからないんでもなかろうけれど、――じゃ神山さん、僕はちょいとそこいらへ行って見て来らあ。・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ちょうど当り出した薄日の光に、飾緒の金をきらめかせながら。 三 陣中の芝居 明治三十八年五月四日の午後、阿吉牛堡に駐っていた、第×軍司令部では、午前に招魂祭を行った後、余興の演芸会を催す事になった。会場は支那の村落に・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・それとも保吉はこの句さえ見れば、いつも濡れ仏の石壇のまわりにごみごみ群がっていた鳩を、――喉の奥にこもる声に薄日の光りを震わせていた鳩を思い出さずにはいられないのである。 鑢屋の子の川島は悠々と検閲を終った後、目くら縞の懐ろからナイフだ・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ 昼過きになると戸外の吹雪は段々鎮まっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまった雪に来てそっと戯れるまでになった。然し産室の中の人々にはますます重い不安の雲が蔽い被さった。医師は医師で、産婆は産婆で、私は私で、銘々の不安に捕わ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・が、庭は赤土に薄日がさして、塔形の高い石燈籠に、苔の真蒼なさびがある。ここに一樹、思うままの松の枝ぶりが、飛石に影を沈めて、颯と渡る風に静寂な水の響を流す。庭の正面がすぐに切立の崖で、ありのままの雑木林に萩つつじの株、もみじを交ぜて、片隅な・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・そして睡眠は時雨空の薄日のように、その上を時どきやって来ては消えてゆくほとんど自分とは没交渉なものだった。吉田はいくら一日の看護に疲れても寝るときが来ればいつでもすやすやと寝ていく母親がいかにも楽しそうにもまた薄情にも見え、しかし結局これが・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・みのかげから美々しく着飾ったコサック騎兵が今にも飛び出して来そうな気さえして、かれも心の中では、年甲斐もなく、小桜縅の鎧に身をかためている様なつもりになって、一歩一歩自信ありげに歩いてみるのだが、春の薄日を受けて路上に落ちているおのれの貧弱・・・ 太宰治 「花燭」
・・・青森に着いた時には小雨が降っていたが、間もなく晴れて、いまはもう薄日さえ射している。けれども、ひんやり寒い。「この辺はみんな兄さんの田でしょうね。」北さんは私をからかうように笑いながら尋ねる。 中畑さんが傍から口を出して、「そう・・・ 太宰治 「帰去来」
出典:青空文庫