・・・彼は相変らず薄暗い書斎に閉籠って亡霊の妄想に耽っていたが、いつまでしてもその亡霊は紙に現れてこなかった。 ある日雨漏りの修繕に、村の知合の男を一日雇ってきた。彼は二間ほどもない梯子を登り降りするのに胸の動悸を感じた。屋根の端の方へは怖く・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・何故と言って、自分の見ている薄暗い窓のなかが、自分の思っているようなものでは多分ないことが、僕にはもう薄うすわかっているんです。それでいて心を集めてそこを見ているとありありそう思えて来る。そのときの心の状態がなんとも言えない恍惚なんです。い・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ この老人がその小さな丸い目を杉の杜の薄暗い陰でビカビカ輝らせて、黙って立っているのを見るとだれも薄気味の悪い老翁だと思う、それが老翁ばかりでなく「杉の杜」というのが、岩――の士族屋敷ではこの「ひげ」の生まれない前のもっと前からすでに気・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・罪なくして、薄暗い牢獄に投じられた者が幾人あることか! 彼はそんなことを思った。自分もそれにやられるのではないか! 長い机の両側に、長い腰掛を並べてある一室に通された。 曹長が鉛筆を持って這入って来て、彼と向い合って腰掛に腰かけた。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 俺はその音をきいた。それは聞いてしまってからも、身体の中に音そのまゝの形で残るような音だった。この戸はこれから二年の間、俺のために今のまゝ閉じられているんだ、と思った。 薄暗い面会所の前を通ると、そこの溜りから沢山の顔がこっちを向・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・階下にある四畳半や茶の間はもう薄暗い。次郎の出発にはまだ間があったが、まとめた荷物は二階から玄関のところへ運んであった。「さあ、これだ、これが僕の持って行く一番のおみやげだ。」 と、次郎は言って、すっかり荷ごしらえのできた時計をあち・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・やはり今日のお祭の騒ぎに、一人で僻んで反抗し、わざと汚いふだん着のままで、その薄暗い飲み屋で、酒をまずそうに飲んで居るのでありました。それに私も加わり、暫く、黙って酒を飲んで居ると、表はぞろぞろ人の行列の足音、花火が上り、物売りの声、たまり・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ と編集員の一人が相槌を打って冷やかした。 杉田はむっとしたが、くだらん奴を相手にしてもと思って、他方を向いてしまった。実に癪にさわる、三十七の己を冷やかす気が知れぬと思った。 薄暗い陰気な室はどう考えてみても侘しさに耐えかねて・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・いつもは毎日一日役所の殺風景な薄暗い部屋にのみ籠っているし、日曜と云っても余計な調べ物や内職の飜訳などに追われて、こんな事を考えた事も少ないが、病んで寝てみると、急に戸外のうららかな光が恋しくて胸をくすぐられるようである。早くなおりたい。な・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・二 おひろの家へ行ってみると、久しく見なかったおひろの姉のお絹が、上方風の長火鉢の傍にいて、薄暗いなかにほの白いその顔が見えた。涼しい滝縞の暖簾を捲きあげた北国特有の陰気な中の間に、著物を著かえているおひろの姿も見えた。・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫