・・・と簡単な走り書きで、差出人の名はなかった。葉書一杯の筆太の字は男の手らしく、高飛車な文調はいずれは一代を自由にしていた男に違いない。去年と同じ場所という葉書はふといやな聯想をさそい、競馬場からの帰り昂奮を新たにするために行ったのは、あの蹴上・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・こうしてペンを握ったまま、目を閉じると、からだがぐいぐい地獄へ吸い込まれるような気がして、これではならぬと、うろうろうろうろ走り書きしたるものを左に。 日本文学に就いて、いつわりなき感想をしたためようとしたのであるが、はたせるかな、・・・ 太宰治 「古典竜頭蛇尾」
・・・原稿用紙二枚に走り書きしたる君のお手紙を読み、謂わば、屑籠の中の蓮を、確実に感じたからである。君もまたクライストのくるしみを苦しみ、凋落のボオドレエルの姿態に胸を焼き、焦がれ、たしかに私と甲乙なき一二の佳品かきたることあるべしと推量したから・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・―― 吉田は、紙切れに鉛筆で走り書きをして、母に渡した。「これを依田君に渡して下さい。私はちょっと行って来ますから。心配しないで下さいね。大丈夫だから」 老母の眼からは、涙が落ちた。 吉田は胸が痛かった。おそろしい悲しみ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・手紙とは言いながら五六行の走り書きで、末にかしくの止めも見えぬ。幾たびか読み返すうちに、眼が一杯の涙になッた。ついに思いきった様子で、宛名は書かず、自分の本名のお里のさ印とのみ筆を加え、結び文にしてまた袂へ入れた。それでまたしばらく考えてい・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 葉書の走り書きで、今日の午後に来ると云ってよこしたんで急に書斎でも飾って見る気になる。 机の引出しから私だけの「つやぶきん」を出して本棚や机をふいて、食堂から花を持って来たり、鼠に食われる恐ろしさに仕舞って置く人形や「とんだりはね・・・ 宮本百合子 「秋風」
出典:青空文庫