・・・畦道をその方に歩いて行く人影のいつか豆ほどに小さくなり、折々飛立つ白鷺の忽ち見えなくなることから考えて、近いようでも海まではかなりの距離があるらしい。 これは堤防の上を歩みながら見る右側の眺望であるが、左側を見れば遠く小工場の建物と烟突・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・もっとも幾何学などで中心から円周に到る距離がことごとく等しいものを円と云うというような定義はあれで差支ない、定義の便宜があって弊害のない結構なものですが、これは実世間に存在する円いものを説明すると云わんよりむしろ理想的に頭の中にある円という・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・何しろ可成り距離はあるんだし、暗くはあるし、けれども私は体中の神経を目に集めて、その一固りを見詰めた。 私は、ブルブル震え始めた。迚も立っていられなくなった。私は後ろの壁に凭れてしまった。そして坐りたくてならないのを強いて、ガタガタ震え・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 方角も吉里の室、距離もそのくらいのところに上草履の音が発ッて、「平田さん、お待ちなさいよ」と、お梅の声で呼びかけて追いかける様子である。その後から二三人の足音が同じ方角へ歩み出した。「や、去るな。いよいよ去るな」と、善吉は撥ね起き・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・朝々の時を告ぐる声は今でもきこえぬではないが、少し距離が遠くなったので、一丁先を往来する汽車の響きほどは頭を悩ましめることが少くなった。二年間の鳥籠の歴史は先ずこんなものであるが、意外な事には前にこの鳥籠を借る事について周旋してもろうた黙語・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・然しながらこれは牛を殺すのと大へんな距離がある。それは常識でわかります。人間から身体の構造が遠ざかるに従ってだんだん意識が薄くなるかどうかそれは少しもわかりませんがとにかくわれわれは植物を食べるときそんなにひどく煩悶しません。そこはそれ相応・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・であろうとも、まず顔に目をひかれ初めるものであるという人間の素朴本然な順序に、すらりとのりうつって、こちらに顔を向けている三人の距離を、人間の顔というよすがによって踰えている。偶然によってではなくて、はっきりした考えをもって、芸術の虚構の効・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
・・・ その隙に下島との間に距離が生じたので、伊織が一飛に追い縋ろうとした時、跡から附いて来た柳原小兵衛が、「逃げるなら逃がせい」と云いつつ、背後からしっかり抱き締めた。相手が死なずに済んだなら、伊織の罪が軽減せられるだろうと思ったからである・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・二人の眼と眼を経だてている空間の距離には、ただ透明な空気だけが柔順に伸縮しているだけである。その二人の間の空気は死が現われて妻の眼を奪うまで、恐らく陽が輝けば明るくなり、陽が没すれば暗くなるに相違ない。二人にとって、時間は最早愛情では伸縮せ・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・それとともに自分の傾向や自分と偉大なる者との間の距離などは全然見えなくなってしまった。自分にだってそれは出来る、ただそれを実現していないだけだ、――すべての事に対してそういう気持ちがあった。 無批評に自分の尊貴を許すということは、自分の・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫