・・・枝の悉くは丸い黄な葉を以て隙間なきまでに綴られているから、枝の重なる筆の穂は色の変る、面長な葡萄の珠で、穂の重なる林の態は葡萄の房の累々と連なる趣きがある。下より仰げば少しずつは空も青く見らるる。只眼を放つ遙か向の果に、樹の幹が互に近づきつ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・そして「恨み重なるチャンチャン坊主」が、至る所の絵草紙店に漫画化されて描かれていた。そのチャンチャン坊主の支那兵たちは、木綿の綿入の満洲服に、支那風の木靴を履き、赤い珊瑚玉のついた帽子を被り、辮髪の豚尾を背中に長くたらしていた。その辮髪は、・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ 天下後世に定論もあるべきなれば、氏の為めに謀れば、たとい今日の文明流に従って維新後に幸に身を全うすることを得たるも、自から省みて我立国の為めに至大至重なる上流士人の気風を害したるの罪を引き、維新前後の吾身の挙動は一時の権道なり、権りに・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・女の厄年というものを日本の云いならわしでは十六とか三十三とか云って、それにはその年それぞれの理由から、様々の危期もあるだろうが、娘の十五、六という年と母の四十歳前後という年とが、或る事情のもとで重なると、女性の生涯の場面としてそこに独特なも・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・ 二月の十三日は私の誕生日と母の命日とが重なるので何か特別よいことはないかしらと今からたのしみにして居ります。あなたはそれを覚えておいでになるかしら、忘れていらっしゃるかしらなど、中川でおべん当を注文する折考えました。 ところで、二・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・とりどりな人間の味、ニュアンスと云われるものの源泉は、恐らくはこういう知性の微妙な動き、波動の重なるかげにあるように思える。 誰しもこの世の中に生れたとき、既にある境遇というものは持っている。それにつながった運命の大づかみな色合いという・・・ 宮本百合子 「知性の開眼」
・・・とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
・・・数多くの能面をこの一語の下に特徴づけるのはいささか冒険的にも思えるが、しかし自分は能面を見る度の重なるに従ってますますこの感を深くする。能面の現わすのは自然的な生の動きを外に押し出したものとしての表情ではない。逆にかかる表情を殺すのが能面特・・・ 和辻哲郎 「能面の様式」
出典:青空文庫