・・・勇は何で皆が騒ぐのか少しも知らない。 そこでその夜、豊吉は片山の道場へ明日の準備のしのこりをかたづけにいって、帰路、突然方向を変えて大川の辺へ出たのであった。「髯」の墓に豊吉は腰をかけて月を仰いだ。「髯」は今の豊吉を知らない、豊吉は昔の・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ 殊に自分は児童の教員、又た倫理を受持っているので常に忠孝仁義を説かねばならず、善悪邪正を説かねばならず、言行一致が大切じゃと真面目な顔で説かねばならず、その度毎に怪しく心が騒ぐ。生徒の質問の中で、折り折り胸を刺れるようなのがある。中に・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ やかましく騒ぐ音が廊下にして、もう血のしみ通った三角巾で思い/\にやられた箇所を不細工に引っくゝった者が這入ってきた。どの顔も蒼く憔悴していた。 脚や内臓をやられて歩けない者は、あとから担架で運ばれてきた。「あら、君もやられた・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・旅の行李の側に床を敷いてからも、場所の違ったのと、鼠の騒ぐのとで、高瀬はよく寝就かれなかった。彼の心はまだ半ば東京の方にあった。自分のために心配していてくれる人達のことなどが、夜遅くまで、彼の胸を往来した。 朝早く高瀬は屋外に出て山・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 私のあわてて騒ぐ様子が、よっぽど滑稽なものだったと見えて、嫁は、膝の上の縫い物をわきにのけ、顔を膝に押しつけるようにして、うふふふと笑い咽んでしまいました。しばらくして顔を挙げ、笑いをこらえているように、下唇を噛んで、ぽっと湯上りくら・・・ 太宰治 「嘘」
・・・暦を調べて仏滅だの大安だのと騒ぐ必要は無かった。四月二十九日。これ以上の佳日は無い筈である。場所は、小坂氏のお宅の近くの或る支那料理屋。その料理屋には、神前挙式場も設備せられてある由で、とにかく、そのほうの交渉はいっさい小坂氏にお任せする事・・・ 太宰治 「佳日」
・・・間断なしに胸が騒ぐ。 重い、けだるい脚が一種の圧迫を受けて疼痛を感じてきたのは、かれみずからにもよくわかった。腓のところどころがずきずきと痛む。普通の疼痛ではなく、ちょうどこむらが反った時のようである。 自然と身体をもがかずにはいら・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・異郷の空に語る者もない淋しさ佗しさから気まぐれに拵えた家庭に憂き雲が立って心が騒ぐのだろう。こんな時にはかたくななジュセッポの心も、海を越えて遥かなイタリアの彼方、オレンジの花咲く野に通うて羇旅の思いが動くのだろうと思いやった事もある。細君・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・右報告、と捨てぜりふのように、さも苦々しく言い切って壇を下りると、またがやがやと騒ぐ声が一しきりした。 それから、入れ代って色々の演説があった。そのうちのある人は若々しい色艶と漆黒の毛髪の持主で、女のようなやさしい声で永々と陳述した。そ・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・ 道太は嫂たちが騒ぐのに対する「弁解だな」と思った。「ただあの人はああいう人ですから、どこでも知っているんですわ。それに妓たちにもてる方や。今は男ぶりもちょっと悪るなったけれど。若いとき綺麗な人は、年取ると変になるものや。でもなかな・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫