・・・すると波は高くて、沖の方は雲切れのした空の色が青く、それに黒雲がうずを巻いていて、ものすごい暴れ模様の景色でした。「また、降りた。早く、帰ろう。」と、お父さんはいわれました。 二人は、急いで、海辺の町を離れると、自分の村をさして帰っ・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・ふり向くと、もはや野原のかなたは、うず巻く黒雲のうちに包まれていました。 小川未明 「曠野」
・・・新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・ひる少しすぎたころ、だしぬけに黒雲が東北の空の隅からむくむくあらわれ二三度またたいているうちにもうはや三島は薄暗くなってしまい、水気をふくんだ重たい風が地を這いまわるとそれが合図とみえて大粒の水滴が天からぽたぽたこぼれ落ち、やがてこらえかね・・・ 太宰治 「ロマネスク」
「非常時」というなんとなく不気味なしかしはっきりした意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらし・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・不平や煩悶のために心の暗くなった時に先生と相対していると、そういう心の黒雲がきれいに吹き払われ、新しい気分で自分の仕事に全力を注ぐことができた。先生というものの存在そのものが心の糧となり医薬となるのであった。こういう不思議な影響は先生の中の・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・という概念の上におおいかかった黒雲のために焦点をはずれた写真のように漠然たる言詞となって来た。このような、これに関連したあらゆる物理学概念の根本的な革命は Reproducibility という概念にも根本的な革命をもたらしたように見える。・・・ 寺田寅彦 「量的と質的と統計的と」
・・・其暑い頂点を過ぎて日が稍斜になりかけた頃、俗に三把稲と称する西北の空から怪獣の頭の如き黒雲がむらむらと村の林の極から突き上げて来た。三把稲というのは其方向から雷鳴を聞くと稲三把刈る間に夕立になるといわれて居るのである。雲は太く且つ広く空を掩・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・草の中に立って碌さんが覚束なく四方を見渡すと、向うの草山へぶつかった黒雲が、峰の半腹で、どっと崩れて海のように濁ったものが頭を去る五六尺の所まで押し寄せてくる。時計はもう五時に近い。山のなかばはたださえ薄暗くなる時分だ。ひゅうひゅうと絶間な・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・「汝が祖ウィリアムはこの盾を北の国の巨人に得たり。……」ここにウィリアムとあるはわが四世の祖だとウィリアムが独り言う。「黒雲の地を渡る日なり。北の国の巨人は雲の内より振り落されたる鬼の如くに寄せ来る。拳の如き瘤のつきたる鉄棒を片手に振り翳し・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫