・・・ 追悼の文は、つくづく、むずかしいものである。一束の弔花を棺に投入して、そうしてハンケチで顔を覆って泣き崩れる姿は、これは気高いものであろうが、けれども、それはわかい女の姿であって、男が、いいとしをして、そんなことは、できない。真似られ・・・ 太宰治 「緒方氏を殺した者」
・・・ 背景となるべき一つの森や沼の選択に時には多くの日子と旅費を要するであろうし、一足の古靴の選定にはじじむさい乞食の群れを気長く物色することも必要になるであろう。 このようにして選択された分析的要素の撮影ができた上で、さらに第二段の選・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・いつでも脅かしに男下駄を玄関に出しておくのが、お京の習慣で、その日も薩摩下駄が一足出ていた。米材を使ってはあったけれど住み心地よくできていた。 不幸なお婆さんが、一人そこにいた。お絹の家の本家で、お絹たちの母の従姉にあたる女であったが、・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・今や堪えかねて鼠は虎に変じた。彼らの或者はもはや最後の手段に訴える外はないと覚悟して、幽霊のような企がふらふらと浮いて来た。短気はわるかった。ヤケがいけなかった。今一足の辛抱が足らなかった。しかし誰が彼らをヤケにならしめたか。法律の眼から何・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・然し、植木屋の安が、例年の通り、家の定紋を染出した印半纒をきて、職人と二人、松と芭蕉の霜よけをしにとやって来た頃から、間もなく初霜が午過ぎから解け出して、庭へはもう、一足も踏み出されぬようになった。二 家の飼犬が知らぬ間に何・・・ 永井荷風 「狐」
・・・犬殺しは太十の姿を見て一足すさった。「何すんだ」 太十は思わず呶鳴った。「殺すのよ」 犬殺しは太いそうして低い声で応じた。「殺せんなら殺して見ろ」 太十はいきなり犬を引っつるように左手で抱えた。「見やがれ殺しはぐ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・もしこの家を引越すとするとこの四足の靴をどうして持って行こうかと思い出した。一足は穿く、二足は革鞄につまるだろう、しかし余る一足は手にさげる訳には行かんな、裸で馬車の中へ投り込むか、しかし引越す前には一足はたしかに破れるだろう。靴はどうでも・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ 蛞蝓は一足下りながら、そう云った。「一体何だってんだ、お前たちは。第一何が何だかさっぱり話が分らねえじゃねえか、人に話をもちかける時にゃ、相手が返事の出来るような物の言い方をするもんだ。喧嘩なら喧嘩、泥坊なら泥坊とな」「そりゃ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・わたくしは万事につけて、一足一足と譲歩して参りました。わたくしには自己の意志と云うものがございません。わたくしは持前の快活な性質を包み隠しています。夫がその性質を挑発的だと申すからでございます。わたくしはただ平和が得たいばかりに、自己の個人・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・何となくここを見捨てるのが残り惜いので車を返せといおうと思うたがそれも余り可笑しいからいいかねて居ると車は一足二足と山へ上って行く。何か買物でもしようかと思うて、それで車返せといおうとしたが、ちょっと買うような物がない。車は一足二足とまた進・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
出典:青空文庫