・・・歴史は過去を繰返すと云うのはここの事にほかならんのですが、厳密な意味でいうと、学理的に考えてもまた実際に徴してみても、一遍過ぎ去ったものはけっして繰返されないのです。繰返されるように見えるのは素人だからである。だから今もし小波瀾としてこの自・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・せっかくの松を一片の煙としてしまうともう、情を働かす余地がなくなるからであります。して見ると文芸家は「物の関係を味わうものだ」と云う句の意味がいささか明暸になったようであります。すなわち物の関係を味わい得んがためには、その物がどこまでも具体・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・そしてすっかり情態が一変していた。町には平凡な商家が並び、どこの田舎にも見かけるような、疲れた埃っぽい人たちが、白昼の乾いた街を歩いていた。あの蠱惑的な不思議な町はどこかまるで消えてしまって、骨牌の裏を返したように、すっかり別の世界が現れて・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・いつも見慣れた途中の駅や風景やが、すっかり珍しく変ってしまって、記憶の一片さえも浮ばないほど、全く別のちがった世界に見えるだろう。だが最後に到着し、いつものプラットホームに降りた時、始めて諸君は夢から醒め、現実の正しい方位を認識する。そして・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 吉里はしばらく考え、「あんまり未練らしいけれどもね、後生ですから、明日にも、も一遍連れて来て下さいよ」と、顔を赧くしながら西宮を見る。「もう一遍」「ええ。故郷へ発程までに、もう一遍御一緒に来て下さいよ、後生ですから」「もう・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
一 太空は一片の雲も宿めないが黒味渡ッて、二十四日の月はまだ上らず、霊あるがごとき星のきらめきは、仰げば身も冽るほどである。不夜城を誇り顔の電気燈にも、霜枯れ三月の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・どれ、もう一遍おれに見せねえ。」 爺いさんは目を光らせた。「なに、おれの宝石を切るのだと。そんな事が出来るものか。それは誰にも出来ぬ。第一おれが不承知だ。こんな美しい物を。これはおれの物だ。誰にも指もささせぬ。おれが大事にしている。側に・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ ここにおいてか、人を妬み人を悪て、たがいに寸分の余地をのこさず、力ある者は力をつくし、智恵ある者は智恵をたくましゅうし、ただ一片の不平心を慰めんがために孜々として、永遠の利害はこれを放却して忘れたるが如くなるにいたる者、すくなからず。・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・然るに嘉永の季、亜美利駕人、我に渡来し、はじめて和親貿易の盟約を結び、またその好を英、仏、魯等の諸国に通ぜしより、我が邦の形勢、ついに一変し、世の士君子、皆かの国の事情に通ずるの要務たるを知り、よって百般の学科、一時に興り、おのおのその学を・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾の記」
・・・すなわち公議輿論の一変したるものなれば、この際にあたりて徳教の働ももとより消滅するに非ずといえども、おのずから輿論に適するがために、大いにその装を改めざるをえざるの時節なり。たとえば在昔は、君臣の団結、国中三百所に相分れたる者が、今は一団の・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
出典:青空文庫