・・・ふと首を上げると壁の上に彼が往生した時に取ったという漆喰製の面型がある。この顔だなと思う。この炬燵櫓ぐらいの高さの風呂に入ってこの質素な寝台の上に寝て四十年間やかましい小言を吐き続けに吐いた顔はこれだなと思う。婆さんの淀みなき口上が電話口で・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・そのうち愚図々々しているうちに、この己れに対する気の毒が凝結し始めて、体のいい往生となった。わるく云えば立ち腐れを甘んずる様になった。其癖世間へ対しては甚だ気きえんが高い。何の高山の林公抔と思っていた。 その中、洋行しないかということだ・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・君が怒らなければ僕は今頃谷底で往生してしまったかも知れないところだ」「豆を潰すのも構わずに引っ張った上に、裸で薄の中へ倒れてさ。それで君はありがたいとも何とも云わなかったぜ。君は人情のない男だ」「その代りこの宿まで担いで来てやったじ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・跛で結伽のできなかった大燈国師が臨終に、今日こそ、わが言う通りになれと満足でない足をみしりと折って鮮血が法衣を染めるにも頓着なく座禅のまま往生したのも一例であります。分化はいろいろできます。しかしその標準を云うとまず荘厳に対する情操と云うて・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ こいつは全で空気と同じく、あらゆる地面を蔽ってはいたが、捕えるのに往生した。 下の関行きの、二三等直通列車が走った。 彼は、長い時間を食堂車でつぶして、ビールの汗で体中を飴湯でも打っかけられたように、ネチャつかせながら、彼の座・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・その目的は死後に極楽に往生していわゆる「パラダイス」の幸福を享けんとの趣意ならん。深謀遠慮というべし。されども不良の子に窘しめらるるの苦痛は、地獄の呵嘖よりも苦しくして、然も生前現在の身を以てこの呵嘖に当たらざるを得ず。余輩敢えて人の信心を・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・ってるから、屁をひって尻をすぼめず屁ひり虫か そいつは余りつまらないじゃないか、つまらないたッて困ったナ それじャこれではどうだ 屁をひってすぼめぬ穴の芒かなサ、少し善ければそれで我慢して置いて安楽に往生するサ 迷わずに往ってくれたまえ、迷・・・ 正岡子規 「墓」
・・・みんな往生じゃ。山猫大明神さまのおぼしめしどおりじゃ。な。なまねこ。なまねこ。」 兎も一緒に念猫をとなえはじめました。「なまねこ、なまねこ、なまねこ、なまねこ。」 狸は兎の手をとってもっと自分の方へ引きよせました。「なまねこ・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・わたし商売たたない。わたしおまんまたべない。わたし往生する、それ、あまり同情ない。」山男はもう支那人が、あんまり気の毒になってしまって、おれのからだなどは、支那人が六十銭もうけて宿屋に行って、鰯の頭や菜っ葉汁をたべるかわりにくれてやろうと思・・・ 宮沢賢治 「山男の四月」
・・・大谷尊由に対談して、長谷川「歎異鈔なんか拝読いたしますと『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』と書いてありますから、吾々共産党だった者でも努力をすれば救われるでしょうか」という質問を出している。この実例は、文化面においてないがしろにで・・・ 宮本百合子 「新年号の『文学評論』その他」
出典:青空文庫