・・・ 目的地に一分ないし二分早く到着する事がそれほど重大であるような場合は、少なくも私のようなものにはほとんど皆無であると言ってもいいのである。私のようなものでなくても、下車後にこれくらいの時を浪費しないという保証をしうる人が何人あるか疑わ・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
・・・ハワイという国には肺病が皆無だとだれかの言った事を思い出す。妻は濃緑に朱の斑点のはいった草の葉をいじっているから「オイよせ、毒かもしれない」と言ったら、あわてて放して、いやな顔をして指先を見つめてちょっとかいでみる。左右の回廊にはところどこ・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・これはあるいは誇大の過言であるとしても、われわれは新聞の概念的社会記事から人間界自然界における新しき何物かを発見しうる見込みはほとんど皆無と言ってよい。しかるに一見なんでもないような市井の些事を写したニュース映画を見ているときに、われわれお・・・ 寺田寅彦 「ニュース映画と新聞記事」
・・・ 精神的交通機関についてもやはり同様で、皆無か具足か、どちらかを選ぶことにしなければ面倒は絶えない。 教育にしても子供から青年までの教育機関はあっても中年、老年の教育機関が一向にととのっていない。しかし、人間二十五、六歳まで教育を受・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・ 例えば早い話が教科書や試験問題には長さ一メートルの物差とか一グラムの分銅とかいう言葉が心配げもなく使ってあるが、実際には決して精密に一メートルとか一グラムとかいう量に出逢う機会は皆無と云ってよい。ただ必要に応じて差しつかえのない程度ま・・・ 寺田寅彦 「物理学実験の教授について」
・・・青のうちでいろいろな種類を意識したいと思っても、いかんせん分化作用がそこまで達しておらんから皆無駄目である。少くとも色について変化に富んだ複雑の生活は送れない事に帰着する。盲眼の毛の生えたものであります。情ない次第だと思います。或る評家の語・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 日本に於けるニイチェの影響は、しかしながら皆無と言ふ方が当つて居る。日本の詩人で、多少でもニイチェの影響を受けたと思はれる人は、過去にも現在にも一人も居ない。況んや小説家の中にも皆無である。ただ一人、僕の知る範囲で芥川龍之介が居た。彼・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・女子に経済法律とは甚だ異なるが如くなれども、其思想の皆無なるこそ女子社会の無力なる原因中の一大原因なれば、何は扨置き普通の学識を得たる上は同時に経済法律の大意を知らしむること最も必要なる可し。之を形容すれば文明女子の懐剣と言うも可なり。・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・日本の都市と云われた集合地の立体性の皆無さにおどろき 日本の近代文化のおくれた足どりに憐憫とやや嫌悪を抱くだろう。生活上の見聞と感覚の発達した日本人はそう感じるのである。 観光日本が眼をたのしませる何をもつか、ということも大切だろうが其・・・ 宮本百合子 「観光について」
・・・画壇政治をぬいて考えて、或る婦人画家の芸術的な発展のあとに感興を覚えて、買い集めようとする人の尠い、殆ど皆無らしいことには何か私たちを考えさせるものがある。 事情にくわしくないから間違っているかもしれないが、婦人画家は良人が画家である場・・・ 宮本百合子 「くちなし」
出典:青空文庫