・・・デルビイの店へも、人に怪まれない位に、ちょいちょい顔を出して、ポルジイの留守を物足らなく思うと云う話をも聞く。ついでに賭にも勝って、金を儲ける。何につけても運の好い女である。 舞台が済んで帰る時には、ポルジイが人の目に掛からないように、・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・故郷の野で聞く虫の声とは似もつかぬ。この似つかぬことと広い野原とがなんとなくその胸を痛めた。一時とだえた追懐の情が流るるように漲ってきた。 母の顔、若い妻の顔、弟の顔、女の顔が走馬燈のごとく旋回する。欅の樹で囲まれた村の旧家、団欒せる平・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・この話を聞くと私は何となくボルツマンを思い出す。しかしボルツマンは陰気でアインシュタインは明るい。 音楽の中では古典的なものを好むそうである。特にゴチックの建築に譬えられるバッハのものを彼が好むのは偶然ではないかもしれない。ベートーヴェ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ そうかと云ってまた無理やりに嫌がる煎薬を口を割って押し込めば利く薬でももどしてしまい、まずい総菜を強いるのでは結局胃を悪くし食慾を無くしてしまうのがおちである。下手なレビューを朝から夜中まで幕なしに見せられるようなものであろうと思われ・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・嫂はたぶん感づいていても知らん顔をしているけれど、嫂の兄さんがばかに律義な人でね、どこだどこだってしきりに聞くんだ」「そんな秘し隠しをしなくともいいじゃありませんか。別に悪いところにいるというのじゃないし、女を買うわけでもないんですもの・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ こんな事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく、信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚忠言を聞く度量もなく、月日とともに進む向上の心もなく、傲慢にしてはなはだしく時勢に後れたるの致すところである。・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ たまたま鐘の声を耳にする時、わたくしは何の理由もなく、むかしの人々と同じような心持で、鐘の声を聴く最後の一人ではないかというような心細い気がしてならない……。昭和十一年三月 永井荷風 「鐘の声」
・・・一旦怒らせたら打っても突いてもいうことを聴くのではない。性癖は彼の父の遺伝である。だが甞て乱暴したということもなくてどっちかというと酷く気の弱い所のあるのは彼の母の気質を禀けたのであった。彼の兄も一剋者である。彼等二人は両親が亡くなって自分・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・商売柄だけに田舎者には相応に機転の利く女房は自分が水を汲んで頻りに謝罪しながら、片々の足袋を脱がして家へ連れ込んだ。太十がお石に馴染んだのは此夜からであった。そうして二三日帰らなかった。女の切な情というものを太十は盲女に知ったのである。目が・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・とややありて女が聞く。男は傍らにある羊皮の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙を薄く削った紙小刀が挟んである。巻に余って長く外へ食み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖で触ると、ぬらりとあやしい字が出・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫