・・・広い大きい道ではあるが、一つとして滑らかな平らかなところがない。これが雨が一日降ると、壁土のように柔らかくなって、靴どころか、長い脛もその半ばを没してしまうのだ。大石橋の戦争の前の晩、暗い闇の泥濘を三里もこねまわした。背の上から頭の髪までは・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・たゝ活動する趣ありて宛然まのあたり萩原某に面合わするが如く阿露の乙女に逢見る心地す相川それの粗忽しき義僕孝助の忠やかなる読来れば我知らず或は笑い或は感じてほと/\真の事とも想われ仮作ものとは思わずかし是はた文の妙なるに因る歟然り寔に其の文の・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・「露国の名誉ある貴族たる閣下に、御遺失なされ候物品を返上致す機会を得候は、拙者の最も光栄とする所に有之候。猶将来共。」あとは読んでも見なかった。 おれはホテルを出て、沈鬱して歩いていた。頼みに思った極右党はやはり頼み甲斐のない男であった・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・しかし今一つ例の七ルウブルの一ダズンの中の古襟のあったことを思い出したから、すぐに起きて、それを捜し出して、これも窓から外へ投げた。大きな帽子を被った両棲動物奴がうるさく附き纏って、おれの膝に腰を掛けて、「テクサメエトルを下さいな」なんと云・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ただレニンの仕事はどこまでが成効であるか失敗であるか、おそらくはこれは誰にもよく分らないだろうが、アインシュタインの仕事は少なくも大部分たしかに成効である。これについては世界中の信用のある学者の最大多数が裏書をしている。仕事が科学上の事であ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・「佳人之奇遇」のごとき、当時では最も西洋臭くて清新と考えられたものを愛読し暗唱した。それ以前から先輩の読み物であった坪内氏の「当世書生気質」なども当時の田舎の中学生にはやはり一つの新しい夢を吹き込むものであった。宮崎湖処子の「帰省」という本・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・私はまた洗練された、しかしどれもこれも単純な味しかもたない料理をしばしば食べた。豪華な昔しの面影を止めた古いこの土地の伝統的な声曲をも聞いた。ちょっと見には美しい女たちの服装などにも目をつけた。 この海岸も、煤煙の都が必然展けてゆかなけ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・有事弟子服其労、有酒食先生饌、曾以是為孝乎。行儀の好いのが孝ではない。また曰うた、今之孝者是謂能養、至犬馬皆能有養、不敬何以別乎。体ばかり大事にするが孝ではない。孝の字を忠に代えて見るがいい。玉体ばかり大切する者が真の忠臣であろうか。もし玉・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼の墓で名高い寺である。豪・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・こんにゃく屋さん、これはうちの旦那さまが丹精していらッしゃるお菜園だよ、ホンとにまァ」 奥さんは、私の足もとから千切れた茄子の枝をひろいあげると、いたましそうにその紫色の花をながめている。私もほんとに申訳ないことをしたと思った。私も子供・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
出典:青空文庫