・・・数日前から夜ごとに来て寝る穴が、幸にまだ誰にも手を附けられずにいると云うことが、ただ一目見て分かった。古い車台を天井にして、大きい導管二つを左右の壁にした穴である。 雪を振り落してから、一本腕はぼろぼろになった上着と、だぶだぶして体に合・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・天下の先覚、憂世の士君子と称し、しかもその身に抜群の芸能を得たる男子が、その生活はいかんと問われて、孤児・寡婦のはかりごとを学ぶとは、驚き入ったる次第にして、文明活溌の眼をもって評すれば、ただ憐むべきのみ。 試みに西洋諸国の工商社会を見・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・ 水晶のいはほに蔦の錦かな 南条より横にはいれば村社の祭礼なりとて家ごとに行燈を掛け発句地口など様々に書き散らす。若人はたすきりりしくあやどりて踊り屋台を引けば上にはまだうら若き里のおとめの舞いつ踊りつ扇などひらめかす手の黒きは・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。 それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・大学などでは一種のアカデミックな社交性というようなもので綺麗ごとに共学されていて、たとえばアメリカの大学の社会科の女子学生と男子学生とが、夏期休暇中の共同研究として、浮浪者の生活調査をやるとか、女子の失業と売淫生活に堕ちてゆく過程の調査だと・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
市が立つ日であった。近在近郷の百姓は四方からゴーデルヴィルの町へと集まって来た。一歩ごとに体躯を前に傾けて男はのそのそと歩む、その長い脚はかねての遅鈍な、骨の折れる百姓仕事のためにねじれて形をなしていない。それは鋤に寄りかかる癖がある・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・予は一片誠実の心を以て学問に従事し、官事に鞅掌して居ながら、その好意と悪意とを問わず、人の我真面目を認めてくれないのを見るごとに、独り自ら悲しむことを禁ずることを得なかったのである。それ故に予は次第に名を避くるということを勉めるようになった・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・ そう灸は叩かれる度ごとにいいながら自分も自分の頭を叩いてみて、「ア痛ッ、ア痛ッ。」といった。 女の子が笑うと、彼は調子づいてなお強く自分の頭をぴしゃりぴしゃりと叩いていった。すると、女の子も、「た、た。」といいながら自分の頭を・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・その殿様というのはエラソウで、なかなか傲然と構えたお方で、お目通りが出来るどころではなく、御門をお通りになる度ごとに徳蔵おじが「こわいから隠れていろ」といい/\しましたから、僕は急いで、木の蔭やなんかへかくれるんです。ですがその奥さまという・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・七 私は才能乏しくしてしかも善良なる人が、宿命として自分に押しつけられている自分の性質を、呪い苦しんでいるのに出逢うごとに、わけもなく涙ぐましい心持ちになります。ことに彼が沈黙と憂愁との内に静かにうなだれているのを見ると、じ・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫