・・・ 主筆 じゃ華族の息子におしなさい。もっとも華族ならば伯爵か子爵ですね。どう云うものか公爵や侯爵は余り小説には出て来ないようです。 保吉 それは伯爵の息子でもかまいません。とにかく西洋間さえあれば好いのです。その西洋間か、銀座通りか・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・あいつが前に見た母親の裙子とか、女の素足とか、あるいはまた花のさいている胡麻畑とか云うものは、やはりそれと同時にあいつの眼の前を、彷彿として往来した事だろう。あるいは屋根があるにも関らず、あいつは深い蒼空を、遥か向うに望んだかも知れない。あ・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・五年の後には小さいながら一箇の独立した農民だった。十年目にはかなり広い農場を譲り受けていた。その時彼れは三十七だった。帽子を被って二重マントを着た、護謨長靴ばきの彼れの姿が、自分ながら小恥しいように想像された。 とうとう播種時が来た。山・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・なぜなればそこにはただ方法と目的の場所との差違があるのみである。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。そうしてこの第二の経験もみごとに失敗した。我々は彼の純粋にてかつ美しき・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ほんの一番だけ、あつきあい下さいませんか。」 こう、つれに誘われて、それからの話である。「蛸とくあのくたら。」しかり、これだけに対しても、三百三もんがほどの価値をお認めになって、口惜い事はあるまいと思う。 つれは、毛利一樹、という画・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・の賑かな店々の赫と明るい果を、縦筋に暗く劃った一条の路を隔てて、数百の燈火の織目から抜出したような薄茫乎として灰色の隈が暗夜に漾う、まばらな人立を前に控えて、大手前の土塀の隅に、足代板の高座に乗った、さいもん語りのデロレン坊主、但し長い頭髪・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・あの藤吉や五郎助を見なさい。百姓なんどつまらないって飛び出したはよいけど、あのざまを見なさい」 省作がそりゃあんまりだ、藤吉の野郎や五郎助といっしょにするのはひどい、というのを耳にもとめずに台所の方へいってしまった。 冷ややかな空気・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・雪子もお児もながら、いちばん小さい奈々子のふうがことに親の目を引くのである。虱がわいたとかで、つむりをくりくりとバリカンで刈ってしもうた頭つきが、いたずらそうに見えていっそう親の目にかわゆい。妻も台所から顔を出して、「三人がよくならんで・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・「そうですか、どこにそんなにたくさん、米や、きびがあるのですか、教えてください。」と、鶏はいいました。くまは、かごの格子の目から、大きな体に比較して、ばかに小さく見える頭をば上下に振って、あたりをながめていました。「なるほど、ここは・・・ 小川未明 「汽車の中のくまと鶏」
・・・ 信吉は、うんと叔父さんの手助けをして、お小使いをもらったら、自分のためでなく、妹になにかほしいものを買ってやって、喜ばせてやろうと思っているほど、信吉は、小さい妹をかわいがっていました。 白い手ぬぐいを被った、女たちといっしょに、・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
出典:青空文庫