・・・ 子供の時分の正月の記憶で身に沁みた寒さに関するものは、着馴れぬ絹物の妙につめたい手ざわりと、穿きなれぬまちの高い袴に釣上げられた裾の冷え心地であった。その高い襠で擦れた内股にひびが切れて、風呂に入るとこれにひどくしみて痛むのもつらかっ・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・の著しいちがいはどこまでも截然と読者の心耳に響いて明瞭に聞き分けられるであろう。同じように、たとえば「炭俵」秋の部の其角孤屋のデュエットを見ると、なんとなく金属管楽器と木管楽器の対立という感じがある。前者の「秋の空尾の上の杉に離れたり」「息・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・人間が懺悔して赤裸々として立つ時、社会が旧習をかなぐり落して天地間に素裸で立つ時、その雄大光明な心地は実に何ともいえぬのである。明治初年の日本は実にこの初々しい解脱の時代で、着ぶくれていた着物を一枚剥ねぬぎ、二枚剥ねぬぎ、しだいに裸になって・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・車はゆるやかな坂道をば静かに心地よく馳せ下りて行く。突然足を踏まれた先刻の職人が鼾声をかき出す。誰れかが『報知新聞』の雑報を音読し初めた。 三宅坂の停留場は何の混雑もなく過ぎて、車は瘤だらけに枯れた柳の並木の下をば土手に沿うて走る。往来・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・疑える中には、今更ながら別れの惜まるる心地さえほのめいている。「行く」といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりと踵を回らして、女の前に、白き手を執りて、発熱かと怪しまるるほどのあつき唇を、冷やかに柔らかき甲の上・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・不順を始めとして、以下憤怒怨恨誹謗嫉妬等、あらん限りの悪事を書並べて婦人固有の敗徳としたるは、其婦人が仮令い之を外面に顕わさゞるも、心中深き処に何か不平を含み、時として之を言行に洩らすことありとて、其心事微妙の辺を推察したるものならんか。若・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・人あるいはこの諸件の変革を見て、その原因を王政維新の一挙に帰し、政府をもって人事百般の源となし、その心事の目的を政府の一方に定めて、他をかえりみざる者多しといえども、余輩の考には政府もまた、ただ人事の一部分にして、その旧政府を改めて新政府を・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ただに実際に心配なきのみならず、学校の官立なりしものを私立に変ずるときは、学校の当局者は必ず私有の心地して、百事自然に質素勤倹の風を生じ、旧慣に比して大いに費用を減ずべきはむろん、あるいはこれを減ぜざれば、旧時同様の資金をもってさらに新たに・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・ 我が輩ひと通りの考にては、この言はまったく俗吏論にして、学者の心事を知らざるものなりと一抹し去らんとしたれども、また退いて再考すれば、学者先生の中にもずいぶん俗なる者なきに非ず、あるいは稀には何官・何等出仕の栄をもって得々たる者もあら・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・ 二十四、五歳以上にて漢書をよく読むという人、洋学に入る者あれども、智恵ばかり先ばしりて、乙に私の議論を貯えて心事多きゆえ、横文字の苦学に堪えず、一年を経ずして、ついに自から廃し、またもとの漢学に帰る者ままこれあり。この輩はもと文才・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
出典:青空文庫