・・・これすなわち上書建白の多くして、官府に反故のうずたかきゆえんなり。 かりにその上書建白をして御採用の栄を得せしめ、今一歩を進めて本人も御抜擢の命を拝することあらん。而してその素志果して行われたるか、案に相違の失望なるべし。人事の失望は十・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
旧藩情緒言一、人の世を渡るはなお舟に乗て海を渡るがごとし。舟中の人もとより舟と共に運動を與にすといえども、動もすれば自から運動の遅速方向に心付かざること多し。ただ岸上より望観する者にして始てその精密なる趣を知る・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・ オオビュルナン先生はしずかに身を起して、その手紙を持って街に臨んだ窓の所に往って、今一応丁寧に封筒の上書を検査した。窓の下には幅の広い長椅子がある。先生は手紙をその上に置いて自身は馬乗りに椅子に掛けた。そして気の無さそうに往来を見卸し・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・春風馬堤曲に溢れたる詩思の富贍にして情緒の纏綿せるを見るに、十七字中に屈すべき文学者にはあらざりしなり。彼はその余勢をもって絵事を試みしかども大成するに至らざりき。もし彼をして力を俳画に伸ばさしめば日本画の上に一生面を開き得たるべく、応挙輩・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・「イデェオロギーが情緒感覚の生活にまで泌みわたって、これを支配し変革する」ことがなければプロレタリア文学は真の芸術であり得ないという片上伸の主張とそのためのたたかいを著者は、同情と批判をもって跡づけている。 この初期の二つの評論にはっき・・・ 宮本百合子 「巖の花」
・・・恐らくこの蔭に有島武郎という人の情緒の感傷的な性格が潜んでいたのであろう。作者自身がそれによって最後を終った恋愛も、激しく震撼的ではあったであろうが、本質的にはある零落と呼び得る方向へ向って行く性質を帯びたものであった。しかし、当事者はそう・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・次から次へと生れて来る子供たちの世話をしたり、家政をとる傍ら、徹夜までしてレフ・トルストイの作品の浄書をして援けて来たソフィヤ夫人とトルストイの間は、トルストイが一度、一度と精神的危機を経験する毎に離反の度を増して来た。一八八七年、五十九歳・・・ 宮本百合子 「ジャンの物語」
・・・ よみ難かった母の原稿の浄書から印刷に関する煩瑣な事務万端について援助を惜しまれなかった私の親友壺井栄夫人に感謝する次第である。〔一九三五年七月〕 宮本百合子 「葭の影にそえて」
・・・さて上書を改めたが、伜宇平の手でもなければ、女房の手でもない。ちょいと首を傾けたが、宛名には相違がないので、とにかく封を切った。手紙を引き出して披き掛けて、三右衛門は驚いた。中は白紙である。 はっと思ったとたんに、頭を強く打たれた。又驚・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・壊に心象の交互作用を端的に投擲することに於て、また如実派の或る一部、例えば犬養健氏の諸作に於けるがごとく、官能の快朗な音楽的トーンに現れた立体性に、中河与一氏の諸作に於けるが如く、繊細な神経作用の戦慄情緒の醗酵にわれわれは屡々複雑した感覚を・・・ 横光利一 「新感覚論」
出典:青空文庫