・・・その時誰かの万年筆のインキがほんの少しばかり卓布を汚したのに対して、オーバーケルナーが五マルクとかの賠償金を請求した。血気な連中のうちの一人の江戸っ子が、「それじゃインキがどれだけ多くついてもやはり同じ事か」と聞いた。そうだという返答をたし・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ 学位授与恐怖病の流行によって最も損害を受けるものは、本当に独創的な研究によって学位を請求する人達であろう。独創的なものには玉もあるが疵も多い。疵を怖がる眼には疵ばかり見えて玉は見えにくい。審査者に十分の見識がないと、そういうものの価値・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・銭勘定は会計、受取は請求というのだったな。」 唖々子の戯るるが如く、わたしはやがて女中に会計なるものを命じて、倶に陶然として鰻屋の二階を下りると、晩景から電車の通らない築地の街は、見渡すかぎり真白で、二人のさしかざす唐傘に雪のさらさらと・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・すると、やがて僕の身辺をそれとなく護衛していたと号する一青年が顕れて、結局酒手と車代とを請求した。給仕女に名刺を持たせてお話をしたい事があるからと言って寄越す人が多い時には一夜に三四人も出て来るようになった。春陽堂と改造社との両書肆が相競っ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・と源さんは松さんに請求する。松さんは大きな声で一節を読み上げる。「狸が人を婆化すと云いやすけれど、何で狸が婆化しやしょう。ありゃみんな催眠術でげす……」「なるほど妙な本だね」と源さんは煙に捲かれている。「拙が一返古榎になった事が・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・それはどうでも宜しいがかように子供が多うございますから、時々いろいろの請求を受けます。跳ねる馬を買ってくれとか動く電車を買ってくれとかいろいろ強請られるうちに、活動写真へ連れて行けと云う注文が折々出ます。元来私は活動写真と云うものをあまり好・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・又、彼等は一様に、何かに性急に追いまくられてるように感じた。 彼等は、純粋な憐みと、純粋な憤りとの、混合酒に酔っ払った。 ――俺たちも―― 此考えを、彼等は頑固な靴や、下駄で、力一杯踏みつけた。が、踏みつけても、踏みつけても、溜・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・お前さんも性急だことね。ついぞない。お梅どんが気が利かないんだもの、加炭どいてくれりゃあいいのに」と、小万が煽ぐ懐紙の音がして、低声の話声も聞えるのは、まだお熊が次の間にいると見える。 吉里は紙巻煙草に火を点けて西宮へ与え、「まだ何か言・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・然るに論者は性急にして、鏡に対して反射の醜なるを咎め、瓜に向いて茄子たらざるを怒り、その議論の極意を尋ぬれば、実物にかかわらずして反射の影を美ならしめ、瓜の蔓にも茄子を生ぜしむるの策ありと、公にこれを口に唱えざれば暗に自からこれを心の底に許・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ただに兄のみならず、前年の養子が朝野に立身して、花柳の美なる者を得れば、たちまち養家糟糠の細君を厭い、養父母に談じて自身を離縁せよ放逐せよと請求するは、その名は養家より放逐せられたるも、実は養子にして養父母を放逐したるものというべし。「父子・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
出典:青空文庫