・・・門の扉は左右に開き、喚声をあげて突撃して来る味方の兵士が、そこの隙間から遠く見えた。彼は閂を両手に握って、盲目滅法に振り廻した。そいつが支那人の身体に当り、頭や腕をヘシ折るのだった。「それ、あなた。すこし、乱暴あるネ。」 と叫びなが・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ と叫びながら、可憫そうな支那兵が逃げ腰になったところで、味方の日本兵が洪水のように侵入して来た。「支那ペケ、それ、逃げろ、逃げろ、よろしい。」 こうして平壌は占領され、原田重吉は金鵄勲章をもらったのである。下 ・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・その細い山道は、経路に沿うて林の奥へ消えて行った。目的地への道標として、私が唯一のたよりにしていた汽車の軌道は、もはや何所にも見えなくなった。私は道をなくしたのだ。「迷い子!」 瞑想から醒めた時に、私の心に浮んだのは、この心細い言葉・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・かつて私は、長く住んでいた家の廻りを、塀に添うて何十回もぐるぐると廻り歩いたことがあった。方向観念の錯誤から、すぐ目の前にある門の入口が、どうしても見つからなかったのである。家人は私が、まさしく狐に化かされたのだと言った。狐に化かされるとい・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・時は蒸し暑くて、埃っぽい七月下旬の夕方、そうだ一九一二年頃だったと覚えている。読者よ! 予審調書じゃないんだから、余り突っ込まないで下さい。 そのムンムンする蒸し暑い、プラタナスの散歩道を、私は歩いていた。何しろ横浜のメリケン波戸場の事・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 秋山は見張りへ、小林は鑿を担いで鍛冶小屋へ、それぞれ捲上の線に添うて昇って行った。何しろ、兎に角火に当らないとやり切れないのであった。 ライナーの爆音が熄むと、ハムマーの連中も運転を止めた。 秋山は陸面から八十尺の深さに掘り下・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・ 必要な掘鑿は、長四方形に川岸に沿うて、水面下六十尺の深さに穴を明ける仕事であった。 だから、捲上の線は余分な土や岩石を掘り取らないように、四十五度以上にも峻嶮に、川上と川下とから穴の中に辷り込んでいた。そして、それはトロッコの線路・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・したがって、海底での貝の身をエサにしている河豚の味がよくなるわけだが、この河豚を釣るのはそう簡単ではない。ソコブクの一コン釣りといって、名人芸の一つにされている。私もしばしば試みたけれども、十数回のうちで、たった一度しか成功しなかった。・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・ 善吉はにっこりして左右の肩を見返り、「こいつぁア強気だ。これを借りてもいいのかい」「善さんのことですもの。ねえ。花魁」「へへへへへ。うまく言ッてるぜ」「よくお似合いなさいますよ。ほほほほほ」「はははは。袖を通したら、お・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・と、じれッたそうに廊下を急歩で行くのは、当楼の二枚目を張ッている吉里という娼妓である。「そんなことを言ッてなさッちゃア困りますよ。ちょいとおいでなすッて下さい。花魁、困りますよ」と、吉里の後から追い縋ッたのはお熊という新造。 吉里は・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫