・・・隣村の茶店まで来た時そこには大勢が立ち塞って居るのを見た。隣村もマチであった。唄う声と三味線とが家の内から聞えて来る。彼はすぐに瞽女が泊ったのだと知った。大勢の後から爪先を立てて覗いて見ると釣ランプの下で白粉をつけた瞽女が二人三味線の調子を・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・数万の家、数十万の人、数百万の物音は余と堂宇との間に立ちつつある、漾いつつある、動きつつある。千八百三十四年のチェルシーと今日のチェルシーとはまるで別物である。余はまた首を引き込めた。婆さんは黙然として余の背後に佇立している。 三階に上・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・吾がうちし太刀先は巨人の盾を斜に斫って戞と鳴るのみ。……」ウィリアムは急に眼を転じて盾の方を見る。彼の四世の祖が打ち込んだ刀痕は歴然と残っている。ウィリアムは又読み続ける。「われ巨人を切る事三度、三度目にわが太刀は鍔元より三つに折れて巨人の・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・たまには太刀を納めたのもある。 鳥居を潜ると杉の梢でいつでも梟が鳴いている。そうして、冷飯草履の音がぴちゃぴちゃする。それが拝殿の前でやむと、母はまず鈴を鳴らしておいて、すぐにしゃがんで柏手を打つ。たいていはこの時梟が急に鳴かなくなる。・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・はなやかな鳥の毛を帽に挿して黄金作りの太刀の柄に左の手を懸け、銀の留め金にて飾れる靴の爪先を、軽げに石段の上に移すのはローリーか。余は暗きアーチの下を覗いて、向う側には石段を洗う波の光の見えはせぬかと首を延ばした。水はない。逆賊門とテームス・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・何人であっても赤裸々たる自己の本体に立ち返り、一たび懸崖に手を撒して絶後に蘇った者でなければこれを知ることはできぬ、即ち深く愚禿の愚禿たる所以を味い得たもののみこれを知ることができるのである。上人の愚禿はかくの如き意味の愚禿ではなかろうか。・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・どいつから先に蹴っ飛ばすか、うまく立ち廻らんと、この勝負は俺の負けになるぞ、作戦計画を立ってからやれ、いいか民平!――私は据えられたように立って考えていた。「オイ、若えの、お前は若え者がするだけの楽しみを、二分で買う気はねえかい」 ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・と、お梅は立ち上りながら、「御膳はお後で、皆さんと御一しょですね。もすこししてからまた参ります」と、次の間へ行ッた。 誰が覗いていたのか、障子をぴしゃりと外から閉てた者がある。「あら、誰か覗いてたよ」と、お梅が急いで障子を開けると、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・この交際はいずれも皆人民の身の上に引受け、人々その責に任ずべきものにして、政府はあたかも人民の交際に調印して請人に立ちたる者の如し。 ゆえに、貿易に不正あれば、商人の恥辱なり、これによりて利を失えば、その愚なり。学芸の上達せざるは、学者・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・今赤い靄が立ち昇る。あの靄の輪廓に取り巻かれている辺には、大船に乗って風波を破って行く大胆な海国の民の住んでいる町々があるのだ。その船人はまだ船の櫓の掻き分けた事のない、沈黙の潮の上を船で渡るのだ。荒海の怒に逢うては、世の常の迷も苦も無くな・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫