・・・ 赤い襷をかけた女工たちは、甲斐甲斐しく脱ぎ棄てられた労働服を、ポカポカ湯気の立ち罩めている桶の中へ突っ込んでいる。「おい止せよ、女の眼前で、そんなの脱がすのは止せよ」「止せたって……、おいお前たち、女の人は、一寸向うを向いてて・・・ 徳永直 「眼」
・・・ ここにおいて、或る人は、帝国ホテルの西洋料理よりもむしろ露店の立ち喰いにトンカツのをかぎたいといった。露店で食う豚の肉の油揚げは、既に西洋趣味を脱却して、しかも従来の天麩羅と抵触する事なく、更に別種の新しきものになり得ているからだ。カ・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・隣村の茶店まで来た時そこには大勢が立ち塞って居るのを見た。隣村もマチであった。唄う声と三味線とが家の内から聞えて来る。彼はすぐに瞽女が泊ったのだと知った。大勢の後から爪先を立てて覗いて見ると釣ランプの下で白粉をつけた瞽女が二人三味線の調子を・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・数万の家、数十万の人、数百万の物音は余と堂宇との間に立ちつつある、漾いつつある、動きつつある。千八百三十四年のチェルシーと今日のチェルシーとはまるで別物である。余はまた首を引き込めた。婆さんは黙然として余の背後に佇立している。 三階に上・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・何人であっても赤裸々たる自己の本体に立ち返り、一たび懸崖に手を撒して絶後に蘇った者でなければこれを知ることはできぬ、即ち深く愚禿の愚禿たる所以を味い得たもののみこれを知ることができるのである。上人の愚禿はかくの如き意味の愚禿ではなかろうか。・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・どいつから先に蹴っ飛ばすか、うまく立ち廻らんと、この勝負は俺の負けになるぞ、作戦計画を立ってからやれ、いいか民平!――私は据えられたように立って考えていた。「オイ、若えの、お前は若え者がするだけの楽しみを、二分で買う気はねえかい」 ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・と、お梅は立ち上りながら、「御膳はお後で、皆さんと御一しょですね。もすこししてからまた参ります」と、次の間へ行ッた。 誰が覗いていたのか、障子をぴしゃりと外から閉てた者がある。「あら、誰か覗いてたよ」と、お梅が急いで障子を開けると、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・この交際はいずれも皆人民の身の上に引受け、人々その責に任ずべきものにして、政府はあたかも人民の交際に調印して請人に立ちたる者の如し。 ゆえに、貿易に不正あれば、商人の恥辱なり、これによりて利を失えば、その愚なり。学芸の上達せざるは、学者・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・今赤い靄が立ち昇る。あの靄の輪廓に取り巻かれている辺には、大船に乗って風波を破って行く大胆な海国の民の住んでいる町々があるのだ。その船人はまだ船の櫓の掻き分けた事のない、沈黙の潮の上を船で渡るのだ。荒海の怒に逢うては、世の常の迷も苦も無くな・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ それから復鶩の飼うてある処を通って左千夫の家に立ちよったが主人はまだ帰らぬという事であった。いっそこのまま帰ろうかとも思うて門の内で三人相談して居たが、妻君の勧めもあるから、遂に坐敷に上りこんで待つ事にした。やがて車の音がして主人は息・・・ 正岡子規 「車上の春光」
出典:青空文庫