・・・緑の箱の上に、朱色の箱を一つ重ねて、手のひらに載せると、桜草のように綺麗なので、私は胸がどきどきして、とても歩きにくかった、というような事を書いたのでしたが、何だか、あまり子供っぽく、甘えすぎていますから、私は、いま考えると、いらいらします・・・ 太宰治 「千代女」
・・・まさか、いい旦那がついたから、とも思いませんが、私は花江さんの通帳に弐百円とか参百円とかのハンコを押すたんびに、なんだか胸がどきどきして顔があからむのです。 そうして次第に私は苦しくなりました。花江さんは決して凄腕なんかじゃないんだけれ・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・眼をつぶったまま覚醒し、まず波の音が耳にはいり、ああここは、港町の小川君の家だ、ゆうべはずいぶんやっかいをかけたな、というところあたりから後悔がはじまり、身の行末も心細く胸がどきどきして来て、突然、二十年も昔の自分の奇妙にキザな振舞いの一つ・・・ 太宰治 「母」
・・・あたしは昔、お母さんと二人でお風呂へはいる時、まあどんなに嬉しかったか、どんなに恥かしかったか、いま思っても胸がどきどきするくらい。 おれの前でそんなくだらない話は、するな。それで、どうなんだ? 睦子を置いて行く気か?(呆ま、お父さ・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・胸が、どきどきする。考えただけでも、背中に冷水をかけられたように、ぞっとして、息がつまる。けれども私は、やっぱり誰かを待っているのです。いったい私は、毎日ここに坐って、誰を待っているのでしょう。どんな人を? いいえ、私の待っているものは、人・・・ 太宰治 「待つ」
・・・胸をどきどきさせて、アンデルセン童話集、グリム物語、ホオムズの冒険などを読み漁った。あちこちから盗んで、どうやら、まとめた。 ――むかし北の国の森の中に、おそろしい魔法使いの婆さんが住んでいました。実に、悪い醜い婆さんでありましたが、一・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ ホモイはあまり胸がどきどきするので、あの貝の火を見ようと函を出して蓋を開きました。 それはやはり火のように燃えておりました。けれども気のせいか、一所小さな小さな針でついたくらいの白い曇りが見えるのです。 ホモイはどうもそれが気・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・ 嘉助は胸をどきどきさせました。 草がからだを曲げて、パチパチ言ったり、さらさら鳴ったりしました。霧がことに滋くなって、着物はすっかりしめってしまいました。 嘉助は咽喉いっぱい叫びました。「一郎、一郎、こっちさ来う。」ところ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・二人はそこで胸をどきどきさせて、まるで風のようにかけ上りました。その子は大きな目をして、じっと二人を見ていましたが、逃げようともしなければ笑いもしませんでした。小さな唇を強そうにきっと結んだまま、黙って二人のかけ上って来るのを見ていました。・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・』ペムペルが胸をどきどきさせながら云った。『入りましょう』とネリも答えた。 けれども何だか二人とも、安心にならなかったのだ。どうもみんなが入口で何か番人に渡すらしいのだ。 ペムペルは少し近くへ寄って、じっとそれを見た。食い付くよ・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
出典:青空文庫