・・・友人は、酒のなみなみつげてる猪口を右の手に持ったがまた、そのままおろしてしまった。「今の僕なら、どうせ、役場の書記ぐらいで満足しとるのやもの、徴兵の徴の字を見ても、ぞッとする程の意気地なしやけど、あの時のことを思うたら、不思議に勇気が出たも・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・青年はしばし四辺を見渡して停止みつおりおり野路を過る人影いつしか霧深き林の奥に消えゆくなどみつめたる、もしなみなみの人ならば鬱陶しとのみ思わんも、かれは然らず、かれが今の心のさまとこの朝の景色とは似通う節あり、霧立ち迷うておぼろにかすむ森の・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・私たちも、先代以来なみなみならぬお世話になって居りますから、こんな機会に少しでもお報いしたいと思っているのです。」と、真面目に言った。 私は、忘れまいと思った。「中畑さんのお骨折りです。」北さんは、いつでも功を中畑さんにゆずるのだ。・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・というのは、なみなみならぬ事である。容易なわざではないのである。神の子は弟子たちに「七度の七十倍ゆるせ」と教えた。しかし、私たちには、七度でさえ、どうであろうか。「愛する」という言葉を、気軽に使うのは、イヤミでしかない。キザである。「き・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・小山書店主人のなみなみならぬ熱心な努力が、これらの装幀にも現われているようである。この異彩ある珍書は著者、解説者、装幀意匠者、製紙工、染織工、印刷工、製本工の共同制作によってできあがった一つの総合芸術品としても愛書家の秘蔵に値するものであろ・・・ 寺田寅彦 「小泉八雲秘稿画本「妖魔詩話」」
・・・ もうしご冥加ご報謝と、 かどなみなみに立つとても、 非道の蜘蛛の網ざしき、 さわるまいぞや。よるまいぞ。」「小しゃくなことを。」と蜘蛛はただ一息に、かげろうを食い殺してしまいました。そしてしばらくそらを向いて、腹をこす・・・ 宮沢賢治 「蜘蛛となめくじと狸」
・・・「ああなまじ法律を喰いかじった人は、なみなみの手では行かれんもんでなあ。 あの人は、なかなかうまい事考え居る。 証書を反古にするつもりで年限などを忘れさせる様にしとるんや。 東京の方へも云うてやって、委任状もろうて、証書・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・フォン・ヴェストファーレンが社会的偏見で見られているユダヤ人のマルクス一家と、そのように親しくつきあい、娘たちの友情を認めていたことだけでも、なみなみの人ではなかったと思われる。カールの快活で独特な精気にみちた人がらは、イエニーの父ヴェスト・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・験をもっていて労働者農民の国ソヴェト同盟の暮しを見たのだから、プロレタリアートの国ソヴェト同盟では、国庫全額負担の失業手当があり、養老保険があり、小学校から大学まで労働者にとっては無料であると語る時、なみなみでない情熱が感じられ、私は自身失・・・ 宮本百合子 「共産党公判を傍聴して」
・・・の著者が良人とわかれて三人の幼子をひきつれていた若い母であったことは、引あげの辛苦もなみなみでないものにした。著者がその惨苦に耐えた火のような生きる意欲そのもののはげしさ、生存のためにむきだしにたたかった、それなりの率直さで、現象から現象へ・・・ 宮本百合子 「ことの真実」
出典:青空文庫