・・・しかし、それから五年経ち、大戦の辛苦を嘗めるに及んで、あの「東京八景」だけでは、何か足りないような気がして、こんどは一つ方向をかえ、私がこれまで東京に於いて発表して来た作品を主軸にして、私という津軽の土百姓の血統の男が、どんな都会生活をして・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・先日も、毛唐がどんなに威張っても、この鰹の塩辛ばかりは嘗める事が出来まい、けれども僕なら、どんな洋食だって食べてみせる、と妙な自慢をして居られた。 主人の変な呟きの相手にはならず、さっさと起きて雨戸をあける。いいお天気。けれども寒さは、・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・いま、この友人が、こんなに乱れて主人に食ってかかっているが、今にきっと私たち二人、追放の恥辱を嘗めるようになるだろうと、私は、はらはらしていた。いつもの私なら、そんな追放の恥辱など、さらに意に介せず、この友人と共に気焔を挙げるにきまっている・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・それから、飯を食うと米の飯が妙に苦くて脂を嘗めるようであった。全く何一つとして好いことはなかったのに、どうしてそれを我慢してあらゆる困難を克服したか分りかねる。しかしとにかくそれに打勝って平気で鼻の孔から煙を出すようにならないと一人前になれ・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・七十五度の闘技に、馬の脊を滑るは無論、鐙さえはずせる事なき勇士も、この夢を奇しとのみは思わず。快からぬ眉根は自ら逼りて、結べる口の奥には歯さえ喰い締ばるならん。「さらば行こう。後れ馳せに北の方へ行こう」と拱いたる手を振りほどいて、六尺二・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・と、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである事は前御話しした通りである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊の状況に因って吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱にな・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・水苔も生えている。滑るだろうか。滑らない。ゴム靴の底のざりざりの摩擦がはっきり知れる。滑らない。大丈夫だ。さらさら水が落ちている。靴はビチャビチャ云っている。みんないい。それにみんなは後からついて来る。苔がきれいにはえている。実に円く柔・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・ 夏は、若い者共の泳場となり、冬は、諏訪の湖にあこがれる青年が、かなり厚く張る氷を滑るのであった。此等の池の美くしいのも只夏ばかりの僅かの間である。山々が緑になって、白雲は様々の形に舞う。 池の水は深く深くなだらかにゆらいで、小川と・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・いつものお婆さんなら、少し鼻にかかった作り声で、滑るように「お暑いこってござりやすないと返事をする筈なのである。 けれども、今日は如何うかして、小学校の子供のように、お婆さんは只コックリと頭を下げた限りで、ぼんやりと天日に頭を曝・・・ 宮本百合子 「麦畑」
・・・ 父は片袖をまくって腕を舐めると剃刀をそこへあててみて、「いかん。」といった。 吉は飲みかけた湯を暫く口へ溜めて黙っていた。「吉がこの間研いでいましたよ。」と姉は言った。「吉、お前どうした。」 やはり吉は黙って湯をご・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫