・・・ただふいと一しょになったのである。老人の前を行く二人は、跡から来る足音を聞いた。そして老人の興奮した、顫えるような息づかいを自分達の項に感じた。しかし誰が跡から付いて来ようと構わない。兎に角目的のない道行である。心の中には反抗的な忿懣のよう・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・するともうかなり遠くへ来たと思うときに、馬がふいに、口をきいて、「ウイリイさん、お腹が減ったら私の右の耳の後へ手をおあてなさい。のどがかわいたら私の左の耳の後をおさわりなさい。」と、人間の通りの言葉でこう言いました。ウイリイはびっくりし・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・どういうことからこんなに不意に伴れて行かれたのであろうか。小母さんのところに一と月もいたのはどうしたゆえであろうかと、いろんなことが一度に考えられて、物足りないような、いらだたしい心持がする。船から隣村の岸までは、目で見てもここからこの前の・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・けれども今夜は、先刻のラジオのせいもあり、気が弱っているところもございましたので、ふいとその辻占で、自分の研究、運命の行く末をためしてみたくなりました。人は、生活に破れかけて来ると、どうしても何かの予言に、すがりつきたくなるものでございます・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・私が茶の間で夕刊を読んでいたら、不意にあなたのお名前が放送せられ、つづいてあなたのお声が。私には、他人の声のような気が致しました。なんという不潔に濁った声でしょう。いやな、お人だと思いました。はっきり、あなたという男を、遠くから批判出来まし・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・それは不意に我身の上に授けられた、夢物語めいた幸福が、遠からず消え失せてしまって、跡には銀行のいてもいなくても好い小役人が残ると云うことである。少くも半年間は、いてもいなくても好いと云うことを、立派に上役から証明せられているのである。この恐・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ときどき汀の石の上や橋の上に降り立って尻尾を振動させている。不意に飛び立って水面をすれすれに飛びながら何かしら啄んでは空中に飛び上がる。水面を掠めてとぶ時に、あの長い尾の尖端が水面を撫でて波紋を立てて行く。それが一種の水平舵のような役目をす・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・そうして、言葉の説明でつかまえようとするとふいと消えてしまう不思議なかげろうのようなものである。それでいて、もっとも確実に見る人の心を動かす動力となりうるものである。一口でいってしまえるような効果だけを並べようとした映画はどうもおもしろくな・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・お絹はそう言って、鼻頭ににじみでた汗をふいていた。 辰之助は序幕に間に合った。「河内山」がすんで、「盛綱陣屋」が開く時分に、先刻から場席を留守にしていたお絹が、やっと落ち著いた顔をして、やってきた。「お芳さんがあすこに立っていた・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・―諸君、議会における花井弁護士の言を記臆せよ、大逆事件の審判中当路の大臣は一人もただの一度も傍聴に来なかったのである――死の判決で国民を嚇して、十二名の恩赦でちょっと機嫌を取って、余の十二名はほとんど不意打の死刑――否、死刑ではない、暗殺―・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫