・・・ 保吉 しかし妙子は外交官の夫に不足のある訣ではないのです。いや、むしろ前よりも熱烈に夫を愛しているのです。夫もまた妙子を信じている。これは云うまでもないことでしょう。そのために妙子の苦しみは一層つのるばかりなのです。 主筆 つまり・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・それはなにも監督が不正なことをしていたからではなく会計上の知識と経験との不足から来ているのに相違ないのだが、父はそこに後ろ暗いものを見つけでもしたようにびしびしとやり込めた。 彼にはそれがよく知れていた。けれども彼は濫りなさし出口はしな・・・ 有島武郎 「親子」
・・・「いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢をするけれどね、お浜が可哀そうだから、号外屋でも何んでもいい、他の商売にしておくれって、三ちゃん、お前に頼むんだよ。内の人が心配をすると悪いから、お前決して、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ この日の薄暮ごろに奈々子の身には不測の禍があった。そうして父は奈々子がこの世を去る数時間以前奈々子に別れてしまった。しかも奈々子も父も家におって……。いつもならば、家におればわずかの間見えなくとも、必ず子どもはどうしたと尋ねるのが常で・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・それだって民さんに不足を云う訣ではないよ」 民子はせきこんで、「そんな事いうはそりゃ政夫さんひどいわ、御無理だわ。この間は二人を並べて置いて、お母さんにあんなに叱られたじゃありませんか。あなたは男ですから平気でお出でだけど、私は年は・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・其の身はかたく暮して身代にも不足なく子供は二人あったけれ共そうぞくの子は亀丸と云って十一になり姉は小鶴と云って十四であるがみめ形すぐれて国中ひょうばんのきりょうよしであった。不断も加賀染の模様のいいのなんか着せていろいろ身ぎれいにしてやるの・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・傾けた徳利の酒が不足であったので、「おい、お銚子」と、奥へ注意してから、「女房は弱いし、餓鬼は毎日泣きおる、これも困るさかいなア。」「それはお互いのことだア。ね」と、僕が答えるとたん、から紙が開いて、細君が熱そうなお燗を持って出て来たが・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・例えば先祖から持ち伝えた山を拓いて新らしい果樹園を造ろうとしたようなもので、その策は必ずしも無謀浅慮ではなかったが、ただ短兵急に功を急いで一時に根こそぎ老木を伐採したために不測の洪水を汎濫し、八方からの非難攻撃に包囲されて竟にアタラ九仭の功・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・本が足りないのでしょうか、金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか。それらのことの不足はもとよりないことはない。けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏は Life 生命の欠乏であります。それで近ごろはしきりに学問とい・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・いままで、かもめはなんの不足もなく、また考えることもなく暮らしてきましたが、このころからようやく考えはじめました。それは、ほりの水の中にすんでいたかもめは、ふたたび青い、青い、海が恋しくなったからです。風が強く吹いて、波が岩角に白く、雪とな・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
出典:青空文庫