・・・ するとそこへ移ってから、まだ一週間も経たないある夜、もうどこかで飲んだ田宮が、ふらりと妾宅へ遊びに来た。ちょうど一杯始めていた牧野は、この飲み仲間の顔を見ると、早速手にあった猪口をさした。田宮はその猪口を貰う前に、襯衣を覗かせた懐から・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 女房は濡れた手をふらりとさして、すッと立った。「三ちゃん。」「うむ、」「お前さん、その三尺は、大層色気があるけれど、余りよれよれになったじゃないか、ついでだからちょいとこの端へはっておいて上げましょう。」「何こんなもの・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 目鼻立ちのばらりとした、額のやや広く、鼻の隆いのが、……段の上からと、廊下からと、二ヶ処の電燈のせいか、その怪しい影を、やっぱり諸翼のごとく、両方の壁に映しながら、ふらりと来て、朦朧と映ったが、近づくと、こっちの息だか婦の肌の香だか、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・「いつでも俺は、気の向いた時、勝手にふらりと実家へ行くだが、今度は山から迎いが来たよ。祭礼に就いてだ。この間、宵に大雨のどッとと降った夜さり、あの用心池の水溜の所を通ると、掃溜の前に、円い笠を着た黒いものが蹲踞んでいたがね、俺を見ると、・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・しかしもうそれさえ気にならずに業をはじめて、ものの十分も経ったと思うと、入口の扉を開けて、ふらりと、あの児が入って来たんだ。」「へい、嬢ちゃん坊ちゃんが。」「そう。宮浜がな。おや、と思った。あの児は、それ、墨の中に雪だから一番目に着・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ と一口がぶりと遣って、悵然として仰反るばかりに星を仰ぎ、頭髪を、ふらりと掉って、ぶらぶらと地へ吐き、立直ると胸を張って、これも白衣の上衣兜から、綺麗な手巾を出して、口のまわりを拭いて、ト恍惚とする。「爽かに清き事、」 と黄色い・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・と、裏の小路からふらりと出て、横合からむずと寄って肩を抱いた。その押つぶしたような帽子の中の男の顔を、熟とすかして――そう言った。「お門が違うやろね、早う小春さんのとこへ行く事や。」と、格子の方へくるりと背く。 紙屋は黙って、ふいと・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・お旦那の前だが、これから先は山道を塒へ帰るばかりだでね――ふらりふらりとよ。万屋 親仁の、そのふらりふらりは、聞くまでもないのだがね、塒にはまだ刻限が早かろうが。――私も今日は、こうして一人で留守番だが、湯治場の橋一つ越したこっちは、こ・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ のめのめとそこに待っていたのが、了簡の余り透く気がして、見られた拍子に、ふらりと動いて、背後向きに横へ廻る。 パッパッと田舎の親仁が、掌へ吸殻を転がして、煙管にズーズーと脂の音。くく、とどこかで鳩の声。茜の姉も三四人、鬱金の婆様に・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ 辻町は、あの、盂蘭盆の切籠燈に対する、寺の会釈を伝えて、お京が渠に戯れた紅糸を思って、ものに手繰られるように、提灯とともにふらりと立った。 五「おばけの……蜻蛉?……おじさん。」「何、そんなものの居よう・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
出典:青空文庫