・・・ それでまア、本郷の山本まで引取るなら、旗が五本に人足が十三人……山本と申すのは、晴二郎の姉の縁先きなんでして、その時の棺側が、礼帽の上等兵が四人、士官が中尉がお一人に少尉がお一人……尤も連隊から一里のあいだは、その外に旗が三本、蓮花が・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・いつもより一層遠く柔に聞えて来る鐘の声は、鈴木春信の古き版画の色と線とから感じられるような、疲労と倦怠とを思わせるが、これに反して秋も末近く、一宵ごとにその力を増すような西風に、とぎれて聞える鐘の声は屈原が『楚辞』にもたとえたい。 昭和・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・ 父親は例の如くに毎朝早く、日に増す寒さをも厭わず、裏庭の古井戸に出て、大弓を引いて居られたが、もう二度と狐を見る機会がなかった。何処から迷込んだとも知れぬ痩せた野良犬の、油揚を食って居る処を、家の飼犬が烈しく噛み付いて、其の耳を喰切っ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・浦里時次郎の艶事を伝うるに最適したものは江戸の浄瑠璃である。マスカニの歌劇は必伊太利亜語を以て為されなければなるまい。 然らば当今の女子、その身には窓掛に見るような染模様の羽織を引掛け、髪は大黒頭巾を冠ったような耳隠しの束髪に結い、手に・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日と定まる仕合の催しに、後れて乗り込む我の、何の誰よと人に知らるるは興なし。新しきを嫌わず、古きを辞せず、人の見知らぬ盾あらば貸し玉え」 老人ははたと手を拍つ。「望める・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・瞳ほどな点が一段の黒味を増す。しかし流れるとも広がるとも片づかぬ。「縁喜でもない、いやに人を驚かせるぜ。ワハハハハハ」と無理に大きな声で笑って見せたが、腑の抜けた勢のない声が無意味に響くので、我ながら気がついて中途でぴたりとやめた。やめ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 我さとの親の方に私して夫の方の親類を次にす可らず、正月節句などにも云々、是れは前にも申す通り表面の儀式には行わる可きなれども、人情の真面目に非ず。又夫の許さゞるには何方へも行く可らずとは何事ぞ。婦人の外出に付き家事の都合を夫に・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・又子の方より言えば仮令い三十年二十五年以上に達しても、父母在すときは打明け相談して同意を求むるこそ穏なれ。法律は唯極端の場合に備うるのみ。親子の情は斯く水臭きものに非ず。呉々も心得置く可し。扨又結婚の上は仮令い命を失うとも心を金石の如くに堅・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 然りといえども、また一方より論ずれば、人民の智力発達するにしたがいてその権力を増すもまた当然の理なり。而してその智力は権衡もって量るべきものに非ざれば、その増減を察すること、はなはだ難し。家厳が力をつくして育し得たる令息は、篤実一偏、・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・我が輩の持論は、今の帝室費をはなはだ不十分なるものと思い、大いにこれを増すか、または帝室御有の不動産にても定められたきとのことは、毎度陳述するところにして、もしも幸にして我が輩の意見の如くなることもあらば、私学校の保護の如き、全国わずかに幾・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
出典:青空文庫